究極の他者としての「自分自身(生身のわたし)」との人間関係のリハビリ。
人間関係とは、普通、他者との人間関係のことを意味するように思われます。しかしここで言っているように究極的な意味での他者とは自分自身のことなのです。
究極的というのは、自分自身であるだけに他の誰よりも不断に関わらなければならない他者であるということです。いつも付き合わなければならない他者である以上、彼(自分自身)との関係は最も大切なものであるといえます。したがって人間関係が悪化した時、一番打撃を受けるのも、彼(自分自身)との関係です。
しかし何故自分自身を、「他者」として捉えることができるのでしょうか。
それは「他者」とは、そもそも、「わたし(自意識)」の思い通りにならない存在者のことを言うのであり、一方、わたしの思い通りになるものは、それは「自分のもの」となるのであって、他者扱いされません。
そして自分自身はわたしのその都度の意思に関わらず、わたしの思い通りにはならないものなのです。
自分自身はわたしの思いに反して、怒りを感じ、恐れを感じます。
自分自身はわたしの思いに反して、頭が痛くなったり、背中がかゆくなったりします。
自分自身はわたしの思いに反して、あの人を好きになってしまいます。
それらのものは、共に自分自身の中に包括されているように思いますが、実は、感情・感覚・意思などは、自分で制御できるというよりも、むしろわたし達は否応なく、それらに従って生きているのです。
そういう意味で、わたしの思いに反して、感情したり、感覚したり、意思したりする自分自身(つまり生身のわたし)というものは、実は「自分のもの」(自分の思い通りになるもの)ではなく、むしろそれ自体が他者と言ったほうが正しいのです。
そして、この自分自身という他者と健全な人間関係を築けること、つまり自分自身と仲良くできることが、人間関係の始まりでもあり、また同時に究極の人間関係のゴールなのです。
わたし達いじめトラウマ生存者にとって、もっとも難しいことは、自分自身を受け入れてあげることです。許してあげることです。愛してあげることです。
わたしにとって、長い間いじめにおいて、あんなぶざまな反応をした自分こそ、もっとも軽蔑するものでした。わたしは自分の弱さ、自分の腰抜けさを、呪いました。自分のことを、自分の反応を、認めることができず、受け入れることができず、徹底的に苦しみました。いじめ後におけるわたしの「自分自身」との関係は最悪だったのです。決裂状態でした。
そしてわたしがほっとできたのは、安心した心境になれたのは、わたしがわたしのぶざまさや弱さを、それはそれでいいじゃないか、そんなわたし自身でも、わたしだけは、それでも、わたしをゆるしてあげよう、これからは、わたしを愛し、やさしくしてあげよう、と思えるようになった時、わたしのいじめトラウマの苦しみは消息に向かっていったのでした。
他者との人間関係は難しいし、誰でもうろたえることや、恐れること、憎むこともあるけれど、それでもわたしは、自分自身のことだけは、どんなことがあっても、愛してゆこう、ゆるしてゆこう、と決意したのです。
こんな風に、自分自身と付き合ってゆく関係を築いてゆくことが、最終的には、人間関係のゴールなのであり、他の人間関係でつまづいても、また起き上がりながら、前を向いて生きてゆく原動力となるのです。