07. 苦悩のピーク①・・・いじめ体験のなれの果て

いじめトラウマを生き抜く方法

過去のいじめで苦しんでいる(いじめ後遺症の)あなたへ。いじめ後遺症うつ病者本人が、自身の、いじめ体験・いじめトラウマ体験・うつ病闘病体験について語ります。いかにトラウマを生き抜くかを考えます。いじめ自助グループ、トラウマ無料スカイプ相談など。

07. 苦悩のピーク①・・・いじめ体験のなれの果て

こうしてバイト中心の生活が終わり、新たに日曜塾とTACが加わった大学二年目の春がやってきました。しかし、大学に行っても依然として友達ができず、自閉的でありました。

 

友達ができない、これはわたしを非常に苦しめました。大学に行っても居場所がないのです。わたしは多人数で群れるのは好きではありませんでしたが、それでも一人や二人自分と一緒に空間を共にしてくれる人が必要でした。わたしは大学内で常に緊張していました。わたしの周りにいる人は、まるで異国の人のような感じがしました。大学と自分との違和が、断絶がますます深まってゆきました。人間は一緒にいて、安心できる人が必要なのです。心を許せる人が必要なのです。それなしには人間は生きてゆけないのです。あたかもそれは酸素のようなものです。常に酸素を補給しなければ生きてゆけないのです。大学二年の4月から5月、わたしは窒息しそうでした。酸素そのものは常にわたしの周りにありましたが、わたしは友達不足で窒息してしまうほど苦しくなってゆきました。もちろんわたしなりに友達作りに努めたのです。週4日は、語学の授業が朝一番であったので、わたしは毎回教室に入る前、

 

「今日こそは、クラスメイトに、おはようと言おう、話しかけよう、愛想よくしよう」と思いました。しかし、教室のドアを開けて入った途端、急にうつむいて暗い顔をして、何も言えずに、一番クラスメイト達と遠い場所に座ってしまうのです。そして、教科書などを見て勉強をはじめるのです。周りから見たら、まじめな、孤独好きな勉強家のように見えたかもしれません。しかし、心の内ではそうではなかったのです。うつむいて、勉強しながら、

「また失敗してしまった、今日もだれとも話をすることはできなかった、話したくても不安と恐怖で、友達のところへ行けない、オレはダメな奴だ、なんて弱い男なのだろう」と思っていたのです。

 

わたしはこの挫折感と自嘲の念に、毎日授業があるたびに苦しみました。言ってみれば、わたしは毎日、教室に入るごとに挫折していたのです。授業は出れば出るほどどんどん苦しくなってゆきました。だから次第に授業に出れなくなりました。眉間のしわも寄りっぱなしでした。大学に居場所もなく、友達もおらず、そして日々の挫折によって苦しさはピークを迎えました。4月から5月で体重が5キロもやせました(わたしは身長173センチ、普段体重60キロ)。もともとやせ気味の体重だったのに、さらに5キロもやせてしまったのです。もちろん食欲もなく、顔つきもげっそりしてしまいました。睡眠も取れなくなりました。入眠できないのです。布団の中に潜っていても恐怖心と不安で苦しみました。そして、最後には、大学の中で自分が存在していることそのことが、もういたたまれなくなりました。自分が存在していること、そのことがいたたまれないのです、自分が存在しているというだけで苦しいのです。苦悩はピークに達しました。

 

これが中三の時「いじめ」を受けた人間のなれの果てなのでした。中三の時から7年もたって、傷が癒えるところか、傷も苦しみももっと深いものになっていったのでした。自殺についても考えました。普通、自殺しようと考えても、理性的判断が働いて自殺を食い止めようとするのではないでしょうか。しかし、あまりにも苦しいと、その理性的判断さえ押しつぶされてしまうのです。理性よりも苦悩が勝る場合、自殺がおこなわれるのではないでしょうか。わたしはあまりの苦しさに、理性もへったくれもなくなりました。何を考えようが、理屈をこねようが、今の苦しい状態には何の効力もなかったのです。苦しさの現実の前で、理性は何の役にも立たなかったのです。そうして、あらゆる外的なもの、内的なもの、現世的なものに対する執着も無くなってゆきました。すべての事柄に、希望も期待も持てなくなりました。自殺することが倫理的に罪であろうが、敗者であろうが、圧倒的な苦悩の前では何の力も持たないのです。そのときわたしは確かに苦しみの中で、理性が押しつぶされてゆくのを感じました。身の危険を感じました。しかし、わたしはぎりぎりのところで踏みとどまりました。そのときわたしを現世に唯一踏みとどまらせたものは、母の存在でした。もちろん母はわたしの過去のことを当時も今も知らないし、大学二年の4月から5月にわたしがどんなに苦しい状態にあったか知らないと思います。しかし、母とわたしには、母と子の一筋のきずなで、固く固く結ばれていたのです。母はわたしのことを大変愛してくれました。当時のわたしにはその自覚がありました。そして、わたしも母のことをこよなく愛していました。その自覚もありました。自殺するということは、自分を愛してくれる人に対する最大の踏みにじりです。わたしが自殺するということは、自分を無条件に愛してくれている母を、そしてわたしが本当に愛している母を最大限踏みにじることになるのです。わたしはこの事実を既に理解していました。だからそのことが唯一わたしをこの世に留まらせたことだったのだと思います。どんなに苦しくても、母を踏みにじることは決してできない。わたしはかつて人にひどく踏みにじられたのです。本当に辛い経験でした。それが本当に辛い経験だったからこそ、なおさら最も愛している母を踏みにじるような行為はできませんでした。自殺はできませんでした(※)。

 

だから生きていられない位苦しみながら、どうしても死ぬことができない、といういわば生き殺しの状態が4月の終わりから5月にかけて続いたのでした。

 

(※)この理屈が普遍性をもつかどうか、いまとなってはよく分からないですが、とにかく母の存在、そして自殺をそのように認識していたことが、自殺衝動のストッパーになったことは間違いないことです。

 

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