04. ボランティア体験②・・・生きる目的とは

いじめトラウマを生き抜く方法

過去のいじめで苦しんでいる(いじめ後遺症の)あなたへ。いじめ後遺症うつ病者本人が、自身の、いじめ体験・いじめトラウマ体験・うつ病闘病体験について語ります。いかにトラウマを生き抜くかを考えます。いじめ自助グループ、トラウマ無料スカイプ相談など。

04. ボランティア体験②・・・生きる目的とは

それは2日目の夜だったと思います。子供たちを寝かしつけた後、親とボランティア達で飲み会をやりました。そして、そこで自己紹介などをやりました。そこでわたしは自分の番が回ってきたときに、先に述べた疑問についてたずねてみました。するとあるお母さんが話してくれました。

 

初めのころは本当に辛かったそうです。母親にとって子供とは、自分の分身なのです。その自分の分身が障害をもっているというだけで、母親にとっては本当に辛いことなのです。自分の子供が傷ものであるということは、たとえれば、自分の顔が切り刻まれるのと同じ位苦しいことなのです。もはや自分の子は人並みの人生は送れない、学校にゆくこともできない、勉強をすることもできない、あらゆる生きていて楽しめることは、彼らには不可能なのです。それは同時に、彼らの母親にとっても彼らと同じくらい絶望的なことなのです。自分の子供が一生車いすで過ごさねばならないということは、母親にとっても彼らと同じくらい苦しいことなのです。否、障害を持った人はそういう自覚を深く持つことがない(※1)のでそんなに不幸ではないのです。一番不幸なのは、自分の子供は人並みに生きることのあらゆる可能性が断たれてしまっていると自覚している親たちなのです(※2)。子供が重度の障害者というだけで、どれだけ彼らが傷ついたか測り知れないと思いました。

 

(※1)これは当時のわたしの勝手な意見でした。実際は、知的障害者でも自分の障害については相当深く悩むようです。わたし達が能力や美醜の問題で悩むように。

(※2)従って一番不幸なのは親だと断言するのは極論かもしれません。関心のある方は注意してご自身で確かめて判断してください。

 

しかし、彼らの母親を傷つけることはそれだけではありませんでした。そういう障害者に対して世間の目は冷たいのです。「きたない」、「きもち悪い」、「早く歩け」、などと平気で言ってくる人がいるのだそうです。それを聞いたとき、母親がどんなに悔しい思いをするのか、彼らには分からないのでしょう。

「この子は何も悪いことをしていないのに、ただ障害をもって生まれただけなのに、何でこんなに冷たくされなければならないの、なんでさげすまれなければならないの、この子は何も悪いことをしていないのに」。

そのとき母親がどんなに悔しい思いをしたか、どれほど涙を流したか、想像に難くありません。そして、そのお母さんは言いました。

「本当に一時は心中でもしてやろうかと思った。」「でもね、せっかく神様が与えてくださった子だし、わたし達は生きるために生きているのだから、頑張って生きてゆかなくちゃ、と思ったのよ」。

「生きるために生きる」、なんてすごいことを言うのだろうと思いました。この言葉はわたしに強烈なインパクトを与えました。それから今に至るまでこの言葉を忘れることができません。わたしの脳裏にしっかりと焼きつきました。これこそ悟りの境地(※3)なのではないでしょうか。

 

(※3)ちょっとオーバーな表現で恐縮ですが、当時22歳のわたしはそのように思ったのです。

 

わたし達は常に「何か」のために生きているでしょう。それが「金」であったり「地位」であったり「名誉」であったり、その結果生じる「快楽」であったりする訳です。しかし、そういったものは本当の目的ではないのです。否、本当の目的になりえないのです。なぜなら、そういったものは無常だからです。常に変わってゆき崩れ去る可能性があるのです。そして実際もろくも崩れ去ってしまうのです。障害者のお母さん方もそうだったと思います。自分の子供が重度の障害者であることを通して、すべての「人並みの何かのため」の可能性が崩れ去ってしまったのだと思います。

 

しかし母親とはすごいものです。自分の子供が絶望的であることによって、自分も子供と一緒に絶望してくれるのです(当時のお母さん方の話を聞いてわたしはそう思いました)。しかも、彼女らは絶望するだけでは終わりませんでした。その絶望を通して人生の真実を獲得したのです。つまり人間は生きるために生きるのだ、と。人間は「人並みの何かのため」に生きるのではありません。そんなものはすぐに崩れ去ってしまうのです。あるいはたかが知れています。だとすれば人間は何のために生きているのか。人間は生きるために生きているのです。それこそ全ての人間に与えられた限界のない無制約的な(※4)人間の意味なのです。「何かのために生きている」というとき、既に人間は人生を手段にしてしまっているのです。しかし、本当はそうではないのです。人生は手段などではないのです。人生は目的なのです。生きるということ自体がもうすでに絶対的に価値あることであり、したがって目的なのです。

 

こうした真理を彼らは、自分の子供を通して、子供と一緒に絶望することを通して獲得したのだと思います。母親達は、自分の子供の不幸な境遇を通して人間として飛躍的に成長したのでした。わたしはそういうお母さんがたの姿を見て、本当にすごいと思いました。あの明るいお母さんがたの心の裏には、心中してしまいたい位の悲しみと苦悩があり、そしてそれを通して人間として飛躍した彼女達のパワーがあったのです。

 

(※4)「無制約的」というのは、分かりにくい言葉です。「無条件的」と言った方がわかりやすいでしょうか。何にも妨げられない、どんなことがあっても崩れない、という意味です。獲得してもすぐ崩れて去ってゆく価値は、無常ですが、無制約的といった場合、それは一度自分のものにしてしまえば決して変わらない普遍の永遠の価値のことを言っているのです。そして生きるために生きるという人間の意味付けはそのひとが生きている限り絶対に失われることはないのです。

 

そして、わたしは本当の明るさとは何か、本当のやさしさとは何か、ということについても考えさせられました。つまり、地の明るさとは大したものではないのだ、そんなものは何か深刻な出来事にあう、何か自分の認識の限界を超えるような出来事にあうと簡単に壊れてしまうのです。そのとき、人間は絶望の淵に立たされます。しかし、地の明るさが壊れることは決して悲観すべきことではないと思うのです。なぜなら、それは新たな、そして真の自己肯定へのステップだからです。そうした絶望的な状態から、もう一度希望を見出すのです。何かのためという無常的なものではなく、生きるということ、そのことの絶対性(絶対的価値)に希望を見出すのです。そしてそうした自己肯定は絶対に崩れません。なぜなら、それは生きている限り決して崩れるものではないのです。生きるということそのことが目的になっているのですから。わたしはこれを仮に「生の絶対性」(※5)と名付けたいと思います。彼女らはこの「生の絶対性」に根ざして生きるようになったのです。そうして、本当の明るさとやさしさを身につけたのだと思います。

 

(※5)無制約的なものは、限界(制約)がなく、無限界・無条件なのだから、それはつまり絶対的ということです。

 

以上のことを簡単にまとめると、まず初めに人間はなんとなく自己肯定しています(根拠なしの盲目的な確信としての自己肯定)。これを「仮の自己肯定」だとします。「仮」であることの意味は、根拠の自覚がなく、したがって既に自分が身につけているもの(既成の価値観)だけで、それから自己を肯定しているということです。そしてそれには常に限界があり、絶えず崩れ去る可能性があるということです。そして、その人間の「仮の自己肯定」を支えていた土台(既成の価値観)が限界に来た時、それは崩れ去ってしまいます。すると自己は自己を肯定できなくなってしまうのです。これを「自己否定」の段階とします。そうして最後に改めて自己肯定することができる段階が来るのです。これが「真の自己肯定」です。これは生の絶対性に根ざして(生の目的意味の根拠の自覚)、それゆえに自己を肯定し生きてゆけることができるようになる段階です。

障害者をもったお母さんがたが子供の絶望的な状況を通して「生の絶対性」に根ざすという真の自己肯定の段階へと飛躍したのだという事実は、わたしに本当の自己肯定は、徹底的な自己否定(既成の価値観の崩壊)を経て、獲得されねばならないということを教えてくれたのでした。

 

さて、それでは改めてこの話はいまのわたし自身とどのような関係があるのかということを考えてみたいと思います。先の記述から反省してみると、まず「仮の自己肯定」のような段階はわたしの場合中学2年生までであったと思います。そして、自己否定の段階も「彼」を通して、「いじめ」を通していやというほど味わったと思います。つまりそれまでに身につけていた既成の価値観を彼によって叩き潰され、それによって肯定していたなけなしの自己(プライド)も踏みつけにされ、何を信じ、何をよりどころにして生きていっていいか全く分からない状態で打ちひしがれていたのです。

 

それでは「真の自己肯定」の段階まで至ったかというと、残念ながらそのような段階には至っていないと思います。この文章を書いている時点(22歳)では積極的に自己否定もしなければ、積極的に自己肯定もできていないといったところです。ちょうど自己否定から自己肯定へ行きそうな、途上にあるように思います。「明るさ」で言えば、わたしは依然として暗いし、自閉的なのです。積極的に自己肯定するに至っておりません。

 

しかし、いつかわたしもあのお母さんがたのように明るくなりたいと思っています。真に明るいやさしい人になりたいと思っています。「生きるために生きる」、「生の絶対性」ということを思いめぐらせながらいつもわたしはそう思うのでした。

 

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