05. 自閉傾向、対人恐怖

いじめトラウマを生き抜く方法

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05. 自閉傾向、対人恐怖

高校時代、クラスでは3年間、一貫して自閉的で暗くおとなしい生徒でした。例外的な2人の友達を除いては、ほとんど友達を作ることができませんでした。普通、友達などというものは別に意識しなくても自然とできてしまうものではないでしょうか。特に高校のようにクラスが決まっていて、いつも一緒に行動するというのであれば、なおさらです。1か月もすれば、もう数人の友達ができているはずです。

 

しかし、過去において強烈に踏みにじられ辱められたわたしは、非常に自閉的になってしまい、友達を作ることもできなくなってしまいました。周りのクラスメイトとは、常に大きな隔たりがあるような感じがしました。何か一言話すのにも、いちいち意識してしまうのです。まるで好きな異性にでも話しかけるように、非常に意図的というか、作為的にしか話すことができないのです。ドギマギして、ギクシャクしてしまうのです。他の人と同じように、自然に話しかけるということができないのです。しかも周りの人のほとんどは、わたしよりも頭のよさそうな人たちだったので、なおさら、頭の悪さに強いコンプレックスをもっていたわたしには、心を開くのは困難でした。

 

さらにこれは夏目漱石の『こころ』に出てくる「先生」に少し似ていると思うのですが、わたしは初めて会う人と話す場合は、それなりに話せるのですが、2回目以降になると、かえって話にくくなってしまうのです。普通は逆だと思います。始めは話しづらくて、2回目以降親しくなって、話しやすくなるのではないでしょうか。わたしは違っていました。これは「先生」と似ているところなのですが、まず自分を軽蔑しているという意識があります。自分を軽蔑しているということは、同時に、軽蔑するに値する自分を他人に知られたくないという意思が働くということです。そして自分のことを軽蔑している人間は、他人に自分を知られることが、もっとも恐ろしいことなのです。だから「先生」は初めのころ「私」が何度も訪問してくれることに対し、あまり愛想よくふるまわないのです。そこには常に、訪問されるほどの価値あるものではないという認識があるのです。そして、それを知られたら軽蔑されるのではないか、という恐怖があるのです。

 

「痛ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近付くほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである。他の懐かしみに応じない先生は、人を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものと見える。」(『こころ』)

 

それはわたしにも当てはまりました。たった一人の人間にかくも踏みにじられ、ひざまずいたという事実は、わたしに、自分はクズだという認識を植え付けました。普通は自己肯定(自分はあっていい)が先に立つものですが、わたしは逆で、常に自己否定(自分はダメだ)のほうが先にたってしまうのです。だからはじめて話す人よりも、2回目以降の人のほうが、わたしにとって恐ろしい存在なのでした。これ以上わたしのことを知られたら、わたしが弱くて卑しい人間であることがバレてしまうのではないか、もしそうしたら、再び踏みにじられるのではないか、という恐怖に常にわたしは脅かされました。

 

「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。わたしは未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです」(同上)

 

だからわたしの場合、人間関係は、親友か全く関係のないかのどちらかであることがよかったのです。ちょっと話したことがあるとか、名前は知られているとか言う中途半端な関係の人が苦手でした。かえって全然関係のない人のほうが大胆になれました。たった一回きりの関係であるならば、多少心を開くことができたのです。しかし、クラスメイトのように長く付き合わねばならないような人たちとは、長く付き合えばわたしの正体を暴かれてしまうのではないか、という恐怖と不安で、かえって仲良くなれませんでした。長く付き合わねばならないとうことは、わたしにとってそのうち自分の正体がバレる可能性があるということを意味したのです。だからかえって自閉的になってしまうのでした。(※)

 

(※) これはいわゆる社会不安(対人恐怖)のひとの典型的な症状、人間関係のあり方でした。

 

しかし、演劇部においては、信じられないくらいよい人間関係を築くことができました。演劇を媒体として、何人もの人と親密な関係を作ることができました。そのおかげで高3ぐらいのときには、人間不信、劣等感、人間恐怖のうち、人間不信はかなり回復されていたと思います。しかし、残念なことに、それは演劇部内だけのことでした。演劇を媒体としないと、部員の人たちでさえ不安や自信のなさを感じてしまうのでした。だから、演劇部の中で獲得したと思われた人間に対する信頼も、クラスの中では、ほとんど威力を発揮しませんでした。友達を作るという意味では、ほとんど進歩することはありませんでした。

 

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