15. 闘病生活②・・・切り捨ててゆく日々

いじめトラウマを生き抜く方法

過去のいじめで苦しんでいる(いじめ後遺症の)あなたへ。いじめ後遺症うつ病者本人が、自身の、いじめ体験・いじめトラウマ体験・うつ病闘病体験について語ります。いかにトラウマを生き抜くかを考えます。いじめ自助グループ、トラウマ無料スカイプ相談など。

15. 闘病生活②・・・切り捨ててゆく日々

さて大学2年の5月以降の話に戻りますが、それ以降はいろいろなものを切り捨ててゆく過程でした。

 

まずYMCAの活動を止めました。YMCAの活動は、大学一年の夏休み以降、大学2年の4月までずっと続けていました。しかし5月以降はもうやってられなくなりました。子供達を連れて一日キャンプに行くのです。これは親御さんから子供達を預かる責任がありますし、子供達と遊びで付き合うのはかなり体力のいることでした。「うつ状態」の絶頂にいた僕にとって、それはもう不可能なことでした。しかし、一日キャンプには行けなくても毎週水曜日のミーティングには出ようと思いました。せっかく新しい仲間ができたのに、その人達と切れてしまうのはもったいないと思ったのです。

 

しかし、仲間といっても僕は依然として自閉的でした。みんなが意見を言い合っている中、僕は、暗い顔をしてただじっとしているだけなのでした。ボランティアの人達はみんなとってもいい人ばかりで、僕は好きだったのですけれど、どうしても複数の人間の集まりになると白閉的になってしまうのです。そして、みんなから疎外されているような気になってしまうのです。大学一年のときもそうだったのだから、大学二年になって一日キャンプに出ないのにミーティングにだけ出ているというのは、ますます僕に疎外感をつのらせました。

 

そうしたことが原因となって、なんとか毎週のミーティングだけはでて、シャボン玉(※)とつながっていようという思いは、僕の中で断念せざる得なくなりました。6月くらいまでは頑張って出ていたのですが、それ以降は顔を見せなくなってしまいました。こうして、大学一年の夏休みから続いていたシャボン玉の活動はとりあえずビリオドがおりました。しかし、ディレクターの田辺さんとは、個人的に数ヵ月に一度はYMCAにたずねて話をするようになりました。

 

(※)YMCAのボランティアサークルの名前

 

次に一年の初めのときから入っていたハイデガー研究会から脱落しました。2年になってからは大学の必修の授業の単位を取るだけでやっとでした。研究会に出る人は余力のある人なのです。僕には必修の授業の予習をすることで精一杯でした。いや、それすらやれない状態だったのです。『存在と時間』を前以て読んでくる力など残っていなかったのです。しかし、これも非常に残念でした。

 

初めのうちは難しくて何をいっているのかさっばり分かりませんでしたが、大学一年の後半に差しかかったころから、やっと書いてあることの意味が分かり始めていたのです。せっかく分かりかけていたのに、研究会に出れなくなることは、とても残念でした。しかし、僕がどんなに固執しても「うつ状態」の猛威の前ではどうしようもありませんでした。こうしてハイデガー研究会にも5月以降は出なくなりました。

 

さらに僕は3月から専門学校で行政書士講座を取っていました。わたしは資格取得のため週に一回土曜日の午後4時間くらい講義を受けていました。これは何と言っても僕が春休みバイトで稼いだお金で学費を払っていたので一番執着しました。週にたった一度なのだから、何とか続けようと思いました。先にも述べたように将来の不安を少しでも和らげるために、何としても10月の試験には受かりたいと思いました。頑張りました。そして、8月までつづけました。しかし、それが限界でした。もう受験勉強する力は残っていませんでした。8月までに、法律の基本的な事項の学習は終わっていたので、後は演習だけだったのです。しかし、もうだめでした。僕は非常に残念に思い、なおかつくやしい思いをしながら、行政書士の受験勉強を断念しました。

 

そして夏休みは、日曜塾の月謝と後期以降のお小遣いいをバイトで稼ごうと思っていたのですが、それもかないませんでした。役者塾の月謝を自腹で払ったのは、3月から8月の6ヵ月間だけでした。結局大学に入ってからバイトをやったのは1年生のときだけだったのです。大学2年から現在に至るまでバイトをすることもかないませんでした。こうして、僕は大学2年の4月までにやっていたことを、5月以降、順々に切り捨てていったのでした。

 

前に戻る |  続きを読む

トピック④うつ病闘病体験に戻る