こうして現役合格失敗以来、どこに向かって歩いて行っていいのか分からない真っ暗やみになってしまった状態から、やっと光が見えてきました。やっと向かうべき方角が見えてきました。「愛のために生きるんだ」とわたしは思いました。利己主義には限界がある。利己的に生きてこれたのは、ただ運がよかっただけなのだ。わたしは運に頼って生きるようなことはしない。それはギャンブラーの生き方だ。勝てばラッキー、負ければ不幸、みたいな生き方はやめよう。限界のない必然的な世界に生きるのだ(※)、と思いました。それこそ「愛」なのだと思いました。人類愛、宇宙愛に生きることこそ、本当に自由で必然的な道なのだ、と思いました。
現役失敗の痛手はまだありましたけれど、かなり前向きに考えられるようになりました。そして、とにかく今は、自分に課せられたことをやろうと思いました。もう大学に受かっても、前のように、人間になれるなどと思っていませんでした。しかし、わたしが人間であろうがなかろうが、とにかく愛のために生きてゆくしかないのだと思ったのです。こうしてその年も終わる頃、やっと9か月ぶりぐらいに受験勉強にエンジンがかかったのでした。
(※)これはちょっと抽象的で難しい表現。注意したいのは、このときの「必然」とは、因果関係の「必然」のことをいっているのではないということ。汗をかいたのは走ったからだ、と言った時、汗をかいたという結果は、走るという原因に対して必然的ですが、そのような意味で、ここで「必然」という言葉を使っているのではないとうことです。ではどういう意味なのか、別の機会に書きたいと思います。
そして、受験に対する姿勢も変わりました。現役時代、わたしは自分のことを大学に受かれば「人間」(※1)、受からなければ「非人間」(※2)と思っていました。これをひとつの思想と考えるならば、これはすぐに限界につきあたります。この思想は不合格になった人を救うことはできないのです。こんな頼りない思想はありません。しかし、わたしは高校時代、確かにこれを絶対思想として持っていたのです。「いじめ」と「受験」の果てにこうした愚かな悲しい結末があったのです。しかし、予備校で一番を取ったのをきっかけに、わたしは初めてその愚かさ、悲しさに気づきました。つまり、今までわたしは、大学に受かったら「偉い」、受からなかったら「バカ」という風な極端な考え方を取っていましたが、そもそも結果で自分の価値を決めること自体ナンセンスなのです。何の根拠もないのです。もし結果がその人の力の結果であるなら、その人を測る尺度になるかもしれません。しかし、結果とは突き詰めてゆくと、結局運命なのです。運命とは自分に依らないものです。どんなに努力しても運命によっては、運命に叶わなければ実現しないし、たいして努力しなくても運命によっては実現される(結果が出る)のです。もし、その人の力が貢献していたとしてもそんなものはほんの数パーセントぐらいの価値しかないのです(※3)。そして、そもそも人生の出来事ひとつひとつが運命の全体(※4)であると言えるのです。運命については後でもう一度ちゃんと書いてみたいと思います。
(※1)「人間合格」というところか。
(※2)「人間失格」というところか。
(※3)これは努力の価値を否定するものではありません。ただ結果を出せるような適切な努力ができるという状況自体が運命からの賜物ではないかと思うのです。およそこの世界で自分のもっているもの、自分のなしてきたことで運命に全くよらいなものなど、わたしは知らない。
(※4)トピック⑤:「『デミアン』に見るいじめの本質」参照
わたしは結果で自分を判断する考え方をやめました。なぜなら結果は運命が決めることだからです。そして、大学受験についても、受かってもうからなくても、わたしはわたしなんだと思うようになりました。それまでは、落ちたら自分が崩れてしまう(※1)のではないか、と恐れていました。自分が自分でなくなるのではないかと恐れていました。しかし、大学に受かろうが、どこに受かろうが下村順一は下村順一なのです(※2)。それに違いはないのです。それによってわたしがわたしでなくなるということはないのです。結果を知る前と知った後でもわたしがわたしであることに変わりはないのです。わたしはわたしなのです。そう考えるようになったら少し楽になりました。それまでわたしは「受からない奴はクズだ」という意識に脅迫されてきたのです。しかしやっとそんなことが、何の根拠もないナンセンスなことだと分かったのです。
(※1)つまりあるべき自分の理想の自己イメージが崩壊するということ。
(※2)自己イメージは主観的で変わりやすいものだが、そもそも自分存在そのものは、どんなことがあっても傷つけられないし、そのままであるということ、それ自体の価値になんら変わりはないということ。わたしは受験の結果によってわたしそれ自体の価値がおとしめられるのではないかと、恐怖していたのだ。
そしていまになってわかったことが、もうひとつ、何があっても下村順一は下村順一であるし、同時に、下村順一は下村順一として、いつもそのままであっていい、ということです。
わたしであることに変わりはないんだ、ということが分かった時、わたしは少し勇気が湧いてきました。元気が出てきたのです。