04. 弱さの肯定学④・・・弱さの彼岸(向こう側)

いじめトラウマを生き抜く方法

過去のいじめで苦しんでいる(いじめ後遺症の)あなたへ。いじめ後遺症うつ病者本人が、自身の、いじめ体験・いじめトラウマ体験・うつ病闘病体験について語ります。いかにトラウマを生き抜くかを考えます。いじめ自助グループ、トラウマ無料スカイプ相談など。

04. 弱さの肯定学④・・・弱さの彼岸(向こう側)

繰り返しになりますが、わたしを長い間悩ませ続けたのは、自分の弱さに対する失望でした。

 

たった一人の人間に、かくも踏みにじられ、何もできなかった気の弱さ(=無力さ)にわたしは心底失望しました。この弱さのことを思うとどうしても自己を肯定することはできませんでした。そして、この先どうなってしまうんだろうという極度の不安にかられました。わたしは長いこと自分は人から踏みにじられるために生まれてきたのだろうかと思っていました。だから、このわたしの弱さをどう肯定するかがわたしにとって最大の課題だったのです。

 

初めわたしはどうやったら強くなれるのだろうということを考えていました。自分の弱さを克服するためにはどうしたらいいのかと考えていました。

 

そしてそれと同時に自分の弱さを認めることができず、しかも認めざる得ない過去があったので、そのはざまで苦しんでいました。

 

わたしはそういうみじめな自分から逃れたいがために高校時代、受験勉強と演劇部に打ち込みました。この2つのことがうまく行ったらもう一度わたしは人間としてやり直すことができるのではないだろうかと考えました。わたしは受験勉強と演劇に自分の人間の尊厳をかけていたのです。

 

もしそれが成功すれば、わたしは弱い卑しい人間ではなく強く立派な人間(尊厳ある存在)になれるのではないかと思ったのです。わたしは強さ・立派さを人間の尊厳として象徴化し、それに弱さを対置していたのです。しかし、演劇部は何とか自分の満足のできるようにやれたのですが、受験に関しては失敗してしまいました。またしてもわたしは強い人間になる機会を逸してしまいました。そしてそれによってわたしが弱く卑しい人間であるということがわたしの中で決定してしまったのです。

 

しかしそれからまたまた数年の月日が流れ、当時のような人間不信や劣等感から抜け出すことができました。また人間恐怖に関しても時間がかかりましたが、その後の恵まれた環境の中でかなり癒されました(しかし、端的に傷の痛みはわたしの中に強く残っていますが)。

 

しかしそうした過去の傷は別にしてもわたし自身の中にある弱さというものは依然として変わることはありません。他人から高圧的な態度をとられたり、悪意をもたれたりするとからっきしだめなのです。いまだもって本当に情けないです。はっきり言って腰ぬけなのです。これは別に自分のことを卑下しているわけではないと思っています。客観的にそうだと思うのです。この人間関係の問題は傷ということを差し引いてもわたしの中で大問題としてあるのです。わたしは最後までこの弱さをどうしたら克服できるのかを考えていました。

 

しかし今は克服しようなどと考えていません。なぜなら、弱い・強いというのは相対的なものの見方だからです。強いというのはある立場において強いということですし、弱いというのもまたある立場によれば弱いということなのです。そしてそれが立場である限り必ず限界があるのです。だから強い・弱いという見方の内にたっている間は救われないのです。仮にわたしがどんなに強くなっても最高に強くなることはできず限界があり、常により上位のものに対して恐れ、それと同時に自分より下を見てそれで満足させるようにしかできないでしょう。

 

しかし、重要なことは強くなること(人間の尊厳の回復)ではなく、弱さと付き合ってゆくということなのではないでしょうか。つまりそれが弱さを受け入れ肯定してゆくということなのです。強さ・弱さの内に留まることではなく、弱さの彼岸(相対性を超えたところ)へ超出してゆくことなのです。

 

先ほど述べたように不可避性が無力さにおいてあらわになり、その無力さはわたしにとってはどうしようもない気の弱さでなのですが、その弱さ(無力さ)をその人固有の不可避性(運命)として引き受けるのだとすれば、そのとき弱さは弱さでなくなるのです。弱さはわたしの唯一性として受け取られるのです。唯一性とは、わたしの存在のかけがえなさのこと、つまり、わたし「だけ」、わたし「しか」ということです。

 

つまりわたしの弱さを、わたしのカッコ悪さを、わたし自身の固有なものとして生き抜くことができるのはわたしだけなのです。わたしだけに与えられたものをわたしだけにしか背負えないものとして受け入れて生きてゆくこと、そのことこそ本当に自分が自分として生きてゆくということなのではないでしょうか。

 

そして自分自身として生きてゆくこと、そこにこそ真に自由に生きる道が開かれているのではないでしょうか。

 

そこで初めてわたしは、そして人は弱さ(無力さ)から解放されて弱さの彼岸(※)へと向かうことができるのではないでしょうか。

 

わたしは今おぼろげながらもその弱さの彼岸へと向かってゆきたいと思っているのです。

 

(※)力があるとかないとかとは関係ないところ、強いとか弱いとかとは関係ないところ、いいとか悪いとかとは関係ないところ。

 
 

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