03. 弱さの肯定学③・・・人間の尊厳の正体

いじめトラウマを生き抜く方法

過去のいじめで苦しんでいる(いじめ後遺症の)あなたへ。いじめ後遺症うつ病者本人が、自身の、いじめ体験・いじめトラウマ体験・うつ病闘病体験について語ります。いかにトラウマを生き抜くかを考えます。いじめ自助グループ、トラウマ無料スカイプ相談など。

03. 弱さの肯定学③・・・人間の尊厳の正体

わたしにとって一番苦しかったのは、わたしがクズになってしまったということでした。

 

クズになってしまったということはわたしにとって、ほとんど絶対的でどうしようもないことでした。

 

そして、なぜそれがどうしようもないものとして現われたかというと、わたしがその時既にある価値観(※1)を持っていたからだと思います。そしてそれにわたしは強く支配されていました。しかし、それはまだ幼く狭い観念でした。

 

だからわたしの持っていたある価値観でわたしの絶望的な状況を救うのはほとんど不可能でした(※2)。

 

なぜならその価値観とは一つの立場に過ぎず、限界があったからです(※3)。

 

わたしの当面した状況というものは、その限界を超えていたものだったのです(それは同時にまたわたしの限界でもあった訳ですが)。そしてその限界を超えたものを限界内の価値観で救おうとしていたのが、それまでのわたしだったのです(※4)。それは無理なことでした。

 

(※1)これはよい、これはこうあるべき、といったようにその人の行動や思考の規範となるもの

(※2)例えば、人は強くあるべき、不正に対しては闘うべき、という価値観でもって、実際には相手に打ち負かされいいなりになり失望している状況を救うことはできないでしょう。闘えなかったから失望しているのだから。価値観の通りに行動することができなかったから失望しているのだから。

(※3)つまりその価値観はある現実(強い人)にはうまく適用できるが、別の現実(弱い人)に対しては適用できないということ。弱い人間に対して、打ち負かされて泣き寝入りしている者に対して、強くあるべきという価値観はあまりにも過酷すぎる、つまり適用できない。そういう人間、状況においてその価値観の限界が露呈するのだ。

(※4) つまり弱い自分(「限界を超えたもの」)を認めないで、あくまで強くあるべきという価値観(「限界内の価値観」)によって自分を救おうとしていた。

 

わたしはそのある価値観において、人間の侵すことのできない価値というものを人間の尊厳として象徴化していました。人間の尊厳とは何なのか、それが長い間わたしが追い求めていたものでした。なぜならわたしはいじめによって人間の尊厳、あるいは人間性というものを打ち砕かれてしまったと感じていたからです。

 

わたしはレイプされました。裸にされました。その時わたしには人間の尊厳などというものは何もなかったのです。ただ肉の塊だったのです。ただの虫けらであっただけなのでした。そして人間の尊厳という観念は、わたしの中で宙に浮いたものになってしまったのです。

 

しかし、人間の尊厳などというものは、本来人間の内に根本的に備わっているようなものではないのです。わたしはそれに大学3年の時に初めて気づきました。それは人間が作った観念の産物(※5)なのではないでしょうか。もともと人間の尊厳などというものはないのです。人も虫けらもみな同じなのです。だから、わたしが人間の尊厳だと信じていたものが破壊されてしまった時に、その観念の産物であるところの人間の尊厳でもって自己を救おうとしていた時、それはほとんど絶望的であったのです。これがわたしを最も苦しめた原因でした。だからもしわたしが救われることが可能であるとすれば、それは観念(人間の尊厳)によってではなく、何か別のものによってでなくてはならないのです。

 

(※5)人間の尊厳とは、事実ではなくて、人によって考えられ産み出されたものだということ。逆にいえばそういうふうに考えるときにのみ(そういう価値観に立った時のみ)、それの実在性(人間の尊厳があるということ)は保証されるのであって、そうでなければいわば幻想(まぼろし)に過ぎないものなのだ。もっと広く深い視野にたって人間の尊厳というものを洞察することはできるかもしれないが、少なくとも当時の幼いわたしの価値観においてわたしが人間の尊厳とみていたものは、幻想だったのだ。

 

では、別のものとは何なのでしょうか?

 
 

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