04. 闘病生活の意味④・・・現実の絶対的意味(価値) = 超意味(価値)

いじめトラウマを生き抜く方法

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04. 闘病生活の意味④・・・現実の絶対的意味(価値) = 超意味(価値)

超意味(価値)とは、無意味・無価値のことです。

 

つまりそれは、相対的意味(価値)から解放されてあること・(相対的意味(価値)に依存していないので)囚われないであること、です。

 

今までは、わたし達はさしあたり指しているところの意味、つまり相対的意味(価値)について話してきましたが、では、絶対的意味(価値)とは、どのようなものでしょう。そもそもそんなものを考えられるのでしょうか。

 

絶対的意味とは、他との関係ではなく、それ自体として成立しているような意味(価値)です。従ってそれは、他と無関係なのだから、どんな現実(人生)についてもあてはめることのできる意味だといえます。

 

そしてその答えは、先ほど既に出てきているように、それ自体としてのコップの意味が無意味であると示されたように、それ自体として成立している「絶対的な現実の意味」なのであり、つまりは、無意味(無価値)ということになるのです。

 

ところでこの「無意味(無価値)」という概念は、意味がないのだから虚しい概念なのでしょうか。
いや、そうではありません。無意味は、「非意味」ではないのです。「非意味」とは、文字通り、意味にあらず、という意味で、意味を形成しません。その一方「無意味」とは、意味無し、という意味において、意味を持っているのです。その場合の意味をここでは「超意味」と呼びたいと思います。無意味とは、相対的意味を超えた意味として、超意味なのです。

 

では具体的には、この超意味(価値)とは、どのような意味を人生において持っているのでしょうか。

 

労働者の例で考えれば、労働はさしあたり、生活費を得るために行います。そこに労働の意味があります。しかし、ここで前回の例のように報酬が得られなかった、その労働は、その目的との関係で無意味となります。つまりその時、労働の意味はなくなってしまうのです。ここで改めて考えてみたいのは、何かの目的(自分のため以外の目的)、例えば、生活のために何かをする、それのためだけに、人が行動を起こすのなら、その時人は生活の奴隷となってしまうのではないでしょうか。相対的意味には必ず達成すべき目的(価値)があります。そして人が何か(他のものの)ためだけにあるのだとすれば、人は他なるもの(自分自身とは異なる価値)のための道具であり、他なる価値の奴隷になってしまうのではないでしょうか。というのも人は自分自身という価値のためだけに行動するとき、目的の奴隷ではなく、自己実現するのですから。

 

それに対して、超意味 = 無意味において人があるとはどういうことでしょう。それは何か他の目的のために行動するのではなく、その瞬間瞬間を自分自身のために生きるあり方として考えられるのです。わたし達はたいてい、何かのためや、何らかの役割に従って行為するというあり方をとっていますが、超意味に生きるあり方とは、その行為の一つ一つが自分自身のために遂行されるのです。つまりそのあり方は、「自分自身が行為の目的であり、おのれの自然のままに行為するという仕方で、世界に対して自分自身を現し示す」、という自己実現してある、あり方のことなのです。

 

これは積極的には、次のように理解できます。

 

つまり超意味に生きる時、人は、既存の意味や価値から解放され、それらにとらわれることなく、自分自身として(それ自体として)あることができるのだ、ということです。わたし達は普段の生活の中で決められた役割を果たすことを求められ、価値を生産したり、価値を得ることを求められますが、それはある条件下で求められるもので、無条件に何か課題があるわけでも義務があるわけでもないのです。本来、人は、何の役割を持たなくても、何かのため(道具)にならなくても、生きていていいし、生きてゆけるのです。超意味とは、そういう人の根本的なあり様を表すキー概念なのです。

 

わたし達にとってもっとも大切なのは、自己実現してあることであり、もっとも恐ろしいのは、自分が自分でなくなることです。

 

わたしはいじめ体験・いじめ後体験の中で、自分が自分でなくなることの恐怖を嫌というほど味わってきました。そしてその恐怖は、わたしが相対的な世界の次元に留まる間、おさまることができませんでした。そしてわたしが超意味の理解にたどり着いた時、わたしは、わたしが自己実現してある、というあり方を取り戻したのです。

超意味の理解は、わたし達の日々の労苦の中で、次のように現実を見つめなおす機会を与えてくれます。それはつまり、この1日8時間の穴掘りの労苦は、確かに収入を得るためのものであるが、そのためだけにこの労苦はあるのではなく、つまり、この穴掘りの作業一瞬一瞬が、わたしの生命の光、つまりわたしの存在の証しとしても存在し、わたし自身の自己実現へとつながっているのだ、と。

 

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