結論から言うと、現実・人生も、それ自体としては、意味を持ちません。
あるのは、他との関係における意味 = 相対的意味のみです。
したがって、現実それ自体の意味を強いて言うなら、それは「無意味」ということになるのです。
(例)ただ苦しいだけの日々(現実・人生)にどんな意味があるのか?
この答えも、そういう現実をそれ自体として見た場合には、無意味といえる、つまり意味などないのです。例えばこういうことは言えるかもしれません。
1日8時間の穴掘りという労働の労苦は、仕事が終わった後、1万円の報酬という仕方で返ってくる。つまり1日8時間の労苦には、生活費を得るという意味があるのです。この労苦の意味は働く前からわかっていて、その結果(報酬)が基本、保証されているものです。この労働時間の意味は、その後の報酬として、そして生活との関係において、意味を持つといえるのです。つまりこの苦しい労働の時間は、相対的な意味を持っているのです。
しかしこの労働には、本当に意味があるのでしょうか。もしその雇用主の会社がつぶれたらどうでしょう。実際そういうことはあり得るわけですが、それでもし1万円の報酬が払われなかった場合、その労働の時間は意味あるものと言えるでしょうか。
もしその労働者が仕事中にケガをして、それが全治1カ月だとしたら、そのたった1日の労働で得るはずの報酬1万円はその労働に見合うものと言えるでしょうか。つまり、その労働は意味があると言えるでしょうか。
答えは、NOです。報酬が得られることを前提に働いていた時間に対して報酬が払われないのであれば、その労苦の時間は無駄・無意味だったと言えるでしょう。事故なし、毎日働けるという前提で入った労働に対して、もしそのおかげで全治1カ月のケガと、その治療及び生活費をまかなわなければならないとすると、その日入った仕事はおのれの生計を立ててゆくという前提で考えた場合、無意味だった、と言えると思います。つまり確かに、この労働は、他との関わり、条件の中では意味がありますが、その労苦もそれ自体としては、無意味、意味がないのです。
確かにこういうことは言えるかもしれません。例えば会社が倒産して、報酬がもらえなかった場合、人生を大局から見て、人生においてはそういうことも起るのだ、だから普段からたくわえをもっていることは大事なのだ、という教訓を得ることはできます。たとえ無報酬だったとしても、人生の教訓を得られたという意味では、その体験の意味があったということはできるかもしれません。
ただそれは、ひょっとしたらその人にとってそれが将来そういう意味を持ちうる、という可能性の話です。それを教訓として考えるだけの成熟した頭脳がなかったり、あるいは、そのことがショックで自殺してしまうことだってあるかもしれません。そういう可能性もあるのです。もしそうなったら、やっぱりその労働は無意味だったといえるのではないでしょうか。そのように考えた場合、仮にその労働に相対的な意味があったとしても、その後、その労働が必ず前提通りの意味を持つ絶対の保証など、原理的にはないのです。
つまり、人生の体験は、相対的には意味を持ち得るが、それは絶対に保証されうるものではなく、他との関係の条件が崩れた時には、常に、その意味も崩壊し、無意味と化す可能性があるのであり、つまり、他との関係を考えずに、それ自体として意味を考えようとするならば、それは常に無意味・意味がないのです。
闘病生活によるただ苦しいだけの生活も今後の20年~30年という人生の中では、ある種の教訓を得る体験となりうるかもしれません。しかしその体験を前提(他との関係)を見ずに、それ自体として見るならば、それは、本人としては、ただ苦しいだけの体験であり、その体験それ自体には、意味など何もないのです。
だとすれば以下のような結論に達してしまわないでしょうか?ただ苦しいだけの闘病生活に入ることは、ただただ運が悪く不幸であるとしかいえず、それを悟ったならば、残される道は、絶望しかないのではないか?