とうとう卒業のときがやってきました。わたしは卒業までになんとか、「彼」に復讐してやろうと考えていました。殴ってやろうと考えていました。しかし、なにもできないまま卒業式がやって来てしまいました。卒業式が終わり卒業証書をもらって3年生は皆、校門からでてゆきお互いに話し合ったり、記念写真を取り合ったりしていました。その時また、「彼」がわたしのもとにやってきました。わたしは今しかない、いまぶっとばしてやろう、と一瞬おもいました。
しかし、次の瞬間---「彼」はわたしに握手を求めてきたのです!そして、わたしは ---
わたしは手を差し出してしまったのです。
わたしをいままであんなにも踏みにじり続けた人間と握手をしてしまったのです。しかもその時わたしは、愛想笑いまでしていたのです。なんて醜くゆがんだ顔であったでしょう。
それをもって「彼」のいじめは完了したのです。
そして、わたしはといえば、完全な敗北者となったのです。
わたしにとって「彼」は、ほとんど絶対的な存在でした。「彼」自身、オレは神だ、と言っていました。わたしは神によって打ち負かされ、相対化され、ただの虫けらにさせられたのでした。
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卒業して「彼」と会わなくなりました。関係なくなりました。「彼」にとって卒業は、同時にいじめの完了を意味しました。しかし、わたしにとって卒業は、いじめからの解放を意味するものでは全くなく、依然としてわたしの中でいじめは生き続け、新しい苦悩のはじまりでもあったのです。卒業したから、もう昔のことは忘れようなどという甘っちょろいものではなかったのです。その苦しさは、実際、年を経ることに増大してゆくかのようでした。高校に入る前のわたし、それは恐怖心と人間不信と劣等感のかたまりでした。これから入学する高校に対する期待などなく、高校で生きて行けるのだろうかと不安、また踏みにじられるのではないかという恐怖が、猛威をふるいました。実際、
わたしはひとに踏みにじられるために生まれてきたのではないか、と長い間おもっていたくらいです。
そして、10か月間のいじめの体験を通して植えつけられた自分に対する失望。とにかく、自分がクズになってしまったという事実は、絶対的で、自己弁護の余地がなく、いじめが終わった後も徹底的にわたしを苦しめました。
わたしはどうしていいのかわかりませんでした。どうやって生きていっていいのかわかりませんでした。いじめられているときも、いじめられた後もどうやって生きていっていいのかわかりませんでした。自分のことを本当にクズだと思いこんでしまっている人間は、どうやって生きていっていいのかわからないのです。
しかし、そのこと以上にそのことをひとにいうことは、わたしにはもっとも苦しいことでした。それは、当時のわたしには、ほとんど不可能でした。