わたしがいじめ体験をして悲しかったことは、自分(の人生)が傷つけられたこと、同級生の「彼」に打ち負かされたこと、自分のその後の人生が台無しになってしまったこと、などです。それらはわたしにとってとても辛いことで、わたしがずっと悲嘆してきたことでした。自分が「傷もの」になってしまったことが悲しかった、自分の人生がゆがめられてしまったことが堪えがたかったのです。
では、「自分」って何、って問うて見た時、その時まで見出していた自分とは、「自分のあるべき人生」、「あるべき自分」であり、それは自分が勝手に考えていた「自己像」のことでした。
しかし、本当の自分はそんなものではありませんでした。自己像は自己「像」であり、「自己そのもの」ではなかったのです(※)。
(※)像は、それに属する性質を持っているという意味で「もの」といえます。「もの」とは、ものという本体があって、そしてそれに従属する性質をもつもののことです。
それに対し本当の自分とは、いつも常に「わたしによって考えられうる以上のもの」であったのです(※)。
(※)考えられうるものはすべて「もの」です。わたしによって考えられえないものとは何のことでしょう。それが本当の自分の正体(本体)になるはずです。
つまり、自分の考える「あるべき自分」など幻想にすぎず、本当にあるのは、そのつどの自分が「自分している」(※)という出来事(事実)だけだったのです。
(※)人間とは「人間している」という出来事のこと、犬とは「犬している」という出来事のこと、コップとは「コップしている」という出来事のこと。下村順一とは「下村順一している」という出来事のことなのです。このようにこの世に存在している「もの」は、全て「出来事(こと)」としてとらえ直すことができるのです。
自分とは、自分という「もの(物)」ではなく、自分とは、下村順一という「出来事(こと)」として、そのつど生起して(起こって)きたこと、その一つ一つの(出来事の)全体のこと、だったのです。
(例)下村順一というのは、その出来事の全体のことで、その中には、誕生という出来事もあれば、おしっこをもらすというだらしない出来事もある、いじめられるというブザマな出来事もあれば、うつ病になるという辛い出来事もある。そしていまこのように文章を書いていることそれ自体もわたしの出来事なのだ。このようにその一つ一つの生起してきた出来事の全体が、すなわち下村順一(という出来事)のことなのだ。