外部的な依存対象に自分という存在のよりどころを持つのではなく、自分自身のかけがえなさという本質そのものの内によりどころを持つという、真に自立的な人間になってはじめて、人は、純粋に本質的に生きてゆくことができるのです。
本質的に生きるとは、純粋にかけひきなしに現実(対象・他者・人生)と関わる(付き合う)ことができるということです。つまりそれが本当の意味で人が強くあるということであり、真に自立しているということなのです。
このように自立的なあり方へと人間を成長させるものが苦悩なのであり、それこそが苦悩の人生的な意味・意義なのです。
その時はじめて苦悩・いじめ体験は否定すべきものではなく、あってよかったものとなり、その人の人生の中で有意義なものとして取り込まれ、過去の体験となるのです。
最後に、中世ヨーロッパの神学者であり聖人と呼ばれたマイスター・エックハルトの言葉を引用して終わりにしたいと思います。
「さて、思慮深い人はみな、よく聞いてほしい。あなたがたをこのような完全性(完全に自立したあり方)へと運びゆく最も足の速い動物は、苦しみである。(中略)。苦しむことほど苦(にが)いものはない。しかし苦しんだことほど甘美なこともない。世間では、苦しむことほど身を醜くするものはないが、逆に神の前では、苦しんだことほど魂を飾るものはないのである。」(『エックハルト説教集』「離脱について」(岩波文庫))