そのつどの生起とは、瞬間の奇跡であり、誰にも何にも予想することも考えることもできない、自分という出来事の固有の継続の奇跡のことなのです。
(例)奇跡というと違和感を覚えるかも知れませんが、例えば、宇宙の出来事とされるビックバンは、それによって宇宙が誕生したとされますが、どうしてビックバン自体が起きたかは、神のみぞ知ることなのです。つまり原因が分からない、あるいは無いにもかかわらず起こるものとして、ビックバンの出来事は奇跡なのです。それに対しては因果関係が分かっているものに対しては、何が起こっても奇跡とはいわず、それは必然的に起こったといいます。わたし達は因果関係が分かっているものに関しては当然のこととして驚きませんが、わからないものに対しては、極度に驚嘆し、恐れ、あるいは畏れるのです。
少しスケールが大きい話になってしまいましたが、もっとわたし達に引きつけて奇跡の意味についてお話しすると、人類60億人の中で、なぜ下村順一という出来事が誕生という仕方で起こったのか、むしろなぜミミズとし誕生しなかったのか、まさに奇跡です。なぜその60億の人類の中で、中学3年の時、わたしは「彼」と出会ってしまったのか、その「彼」との出会いという出来事が起きてしまったのか、どうして「彼」なのか、まさに奇跡です。もっといえば、わたしは今(37歳)までなぜ生きてこれたのか、わたしの生存という出来事が今まで継続してこれたのか、誕生して1時間もたたない内に絶命してしまう人(出来事)もあるのに、なぜわたしは今まで生きてこれたのか、わたしという出来事を続けてこれたのか、まさに奇跡です。
わたし達という出来事はそれ自身なんの根拠もなくそのつど出来事を生起させ継続させてきたのだとすると、わたし達はまさに「瞬間の奇跡の継続」のことなのです。
自分というある性質をもった「もの」が、誰かに何かによってその性質を傷つけられるというのではなかったのです。それは自己中心的な、自己を「もの的」に見るあり方です。
しかし実際の自分はそうではなく、自分という出来事の内に、新たにいじめ体験という出来事が追加されただけであって、自分という出来事自体は何ら傷ついていないのです。
出来事は、いつもそういう出来事(例えば、「下村順一という出来事」)として完全であるので、出来事を害すということは原理的に不可能なのです。なぜならその「害される」ということも、出来事として、その出来事の内に取り込まれてしまうからです。
(例)出来事は、純粋なる現実です。考えられたものではありません。たとえば、記憶に新しい阪神大震災は、一つの出来事として考えた時、いいもわるいもありません。たとえそれで6千以上の人が亡くなられたとしても、そういう出来事を含めて阪神大震災なのですから、出来事としては、それが理由で不完全になるなどということは考えられません。
しかし、阪神大震災を、災害として、人間に害を加える「もの」として捉え、評論するときには、阪神大震災は、関東大震災に比しても、悲惨で、悪なる災害だったと評することもできるでしょう。しかしそれはあくまでも人間に対してその出来事を何らかの対象物(もの)としてとらえた場合にのみ言えることであって、出来事してとらえた場合は、その中で起こったどんな出来事も全体の出来事を損なうことはありえず、それ自体としては、善悪の付け入る隙もなく、純粋なる現実として完全であるのです。