勉強と演劇部、これはわたしの高校時代の2大柱でした。勉強とはすなわち受験勉強のことだったのですが、高校1、2の時は学校の勉強と、Z会がその中心を成すものでした。高校1年の段階ではまだどの大学に進学しようかということがまだはっきりしていませんでしたので、学校で教わるものはすべて吸収しようと思っていました。
すると、やはり高校1、2年のときは定期テストというものが、わたしにとって大きな存在でした。毎回定期テストには全力でぶつかりました。しかし、結果はいつも苦しいものでした。わたしは中学校からの勉強法を取り入れて、定期テストには2週間の準備をもちました。しかも、計画表まで作って勉強していたのです。しかしどんなに頑張っても、クラスの中で中位しか取れませんでした。一クラス50人でいつも25番前後でした。わたしの友達は、1週間とか、1夜づけのような勉強でクラスで10番以内をとっているのです。2週間きちんと準備して、それで真ん中しかとれないというのは、わたしにとってきつい事実でした。
わたしは中学校のときは、120人中いつも10番以内には入っていました。しかし、5番以内にはどうしても入れませんでした。やはり、5番以内の人とわたしとでは、明らかに頭のできが違うようでした。そして、戸山高校にはその5番以内のレベルの人たちがたくさん来ているのです。だから、わたしがどんなに頑張っても、到底かなわなかったのでした。
しかし、君よりも低い人が半分近くいるじゃないか、と思われるかもしれませんが、そういう人はほとんど勉強していないのです。だから成績が悪いだけなのです。もし、みんながわたしのように勉強したら、明らかにわたしはビリになっていたでしょう。
そして、「彼」の言葉が思い出されます、「お前なんか戸山に入ってもついてゆけねえよ!」
「彼」のいうことは半分は正しかったと思います。半分というのは、なぜならわたしが3年間で卒業できたからです。
ふつう、勉強するとき、頭のよい人というのはたいして勉強しなくても人よりできてしまいます。だから、勉強してしまうのです。逆に、頭の平凡な人は、一生懸命勉強しても、頭のよい人にはかなわないことが多いのです。だから勉強が嫌いになるのです。だから平凡な人は、勉強に情熱を燃やせなくなるのです(※1)。
わたしが戸山高校に入ったとき、周りにいたのはほとんど明らかにわたしより頭のよい人たちでした(※2)。彼らは、わたしがどんなに一生懸命勉強をやってもかなわない人たちなのです。
(※1) 現在はそうでもないこともわかってきました。つまり、頭がよくても勉強しない人はいくらでもいるということです。
また頭が平凡であっても中には一生懸命根気強く勉強し続ける人もいるようです。例えばわたし。
(※2)頭のいいひとって、やっぱり顔つきが違うんですよね、それから話し方も洗練されていて、知識量も多く勉強で習うこと以外のこともすごいいっぱい知っているのです。
しかし、そうした状況の中でも、わたしはめげずに勉強し続けることができました。なぜなら、わたしには大学現役合格という唯一の、そして絶対的な目標があったからです。それが達成されるか否かは、わたしが人間であるかないかを決定するほど、大きな意味をもっていたのです(と当時は思いこんでいました)。
わたしはこの目標実現のため、どんなに惨めで、悔しい思いをしても勉強を続けなければならなかったのです。ふつうなら当然落ちこぼれるはずのところを救わせたのは、この唯一の目標があったからだったのです。
しかし、今思うと、本当はそんなことが唯一絶対的な目標であったということ自体、既にもう絶望的だったのです。現役合格するか否かで、自分の人間性をきめてしまうなんてナンセンス以外の何物でもないのです。しかし、中3のとき、頭が悪いといじめ抜かれ、勉強に対して極度に劣等感を植え付けられたわたしにとっては、そう考えることは、当時どうしようもないことだったのです。