田辺さんに受けた影響の一つに敬語がありました。田辺さんは当時、クラスメイトに対して「です・ます」調で話すという癖がありました。これは別に深い意味があったのではなく、ただ当時の彼の癖だったのだと思います。 だから彼と話しているうちに自然とわたしも「です・ます」調で話すようになってしまいました。
しかし、これは単に彼の癖がうつったというだけでなく、当時のわたしにとって大きな意味をもっていました。つまり、人間不信と恐怖心そして、劣等感のかたまりであった当時のわたしには、その敬語しゃべりはコミュ二ケーションの手段として最善のものだったのです。すべてのクラスメイトに対する恐れ、そして劣等感は、自然とわたしを相手に対して引くものとして対するようになったのです。当時のわたしにはクラスメイトといわゆる「タメ語」で話すことなどできなかったのです。いつも相手の機嫌を伺って、下手に下手に遠慮深く人に接するようにしかできなかったのでした。だからその必然として、わたしは「です・ます」調で話すようになりました。当然人の名を呼ぶ時も呼びつけなどしません。男子でも女子でもほとんど「さん」付けをしました。しばしば「先生」付けをクラスメイトに向かってしました。 高校3年間で田辺さんと佐々木さんとはかなり仲良くなれましたが、それでも今でも、彼らを呼びつけにすることにはためらいを感じます。あるいは友達に対して「お前」などということにも今でもためらいを感じます。
こうしてわたしは高校1年のころからずっと「です・ます」調で人と話すようになりました。これは今でも続いています。8年後(中3から)の現在は、高校の時ほどは丁寧でなくなったかと思います(※)。 しかし、今でも、中学校の友達などと時々会って、「です・ます」調を使うと、
「お前なんでタメなのに敬語使うんだよ」
などとクレームがつくこともあります。
あるいはこれは大学に入ってからのことなんですが、YMCAのボランティアサークルに入っていたことがあって、そのグループでは各々にニックネームを付けて、その名で呼びあうことになっているのですが、わたしはニックネームもそのまま呼びつけにすることができなくて、それ(ニックネーム)に「さん」付けや「先生」付けをしました。
しかし、ニックネームに「さん」付けや「先生」付けするのは苦しいものがありました。例えば、「師匠」と呼ばれている人を「師匠先生」と呼んでみたり、「がちゃ」と呼ばれている人を「がちゃさん」と呼んだりするのです。素直に「師匠」「がちゃ」と呼べばよいのだけれど、どうしても気がとがめてしまうのです。
お前は何様だ、お前はクズだろうが、敬語を使え敬語を、
と心の中にいる悪魔がわたしにささやきかけるのでした。
(※) 22年後(中3から)の現在は、だいぶ普通のしゃべれるようになりました。