わたしは、高校時代2つの言葉を友達から教わりました。それは「謙虚」と「思いやり」です。そのうち思いやりということをわたしは加藤君に教わりました。
それはわたしが高校2年の時、戸山祭の準備をしていた時のことでした。いつものように、なかなかみんな集まれず、稽古がうまくいっていませんでした。それでわたしはつい愚痴ってしまいました。
「どうしてみんなオレみたいにできないのだろう」、
とその時、横にいた加藤君は間髪入れずに、
「どうして演劇部の奴はみんな、自分ができることを他人もできると思って、それを押し付けようとするのだろう!」 と言いました。
これは非常に鋭い指摘だったと思います。非常にわたしは反省させられました。わたしは、知らず知らずのうちに他人を自分の尺度で裁いていたのです。自分がこれだけできるのだから、他の人間もこれだけできるはずだ、できなければいけない、と思いこんでいたのです。そうして、それを他人に強要しようとしていたのです。しかし、これは明らかに誤りでした。自分ができるからと言って、他人がそれをできるとは限らないのです。まして自分がやっていることを、他人もやらなければいけないなどというのは、傲慢にも程があります。わたしは、芝居に熱中するあまり、他人のことを思いやることを忘れてしまいました。そして、わたしは自分が全然思いやりがなかったということに気づいた時、愕然としました。なぜならわたしが一番思いやりの大切さを知っているはずだったからです。わたしは、過去の体験において、他人が自分を押し付けてくることの辛さを、嫌というほど味わったはずなのです。他人の尺度によって自分を限定される辛さを、嫌というほど知っていたはずなのです。それなのにわたしは、部員に対して最も思いやりのない傲慢な心をもって、自分を押し付けていたのでした。
わたしはその時初めて、思いやりということがわかったような気がしました。思いやりとは、相手の言動を認めてあげること、許してあげることなのです。世の中には、悪い人がいるかもしれません。また、怠惰な人もいるかもしれません。しかし、そんな人でも、やはりわたしと同じように自分の生を一生懸命生きていることに変わりはないのです。だから、もっとも大切なことは相手の「気持ち」を分かってあげることではなく、自分と同じようにその人も一生懸命に生きているんだということを、つまり相手の「存在」、を認めて、許してあげることなのだと思います。そのことを正に「(相手のことを)分かってあげる」というのです。そして、それが思いやりという言葉の意味なのだと思います。
よく会話の中で「あいつはオレのこと分かってくれているよ」というのは、その人の気持ちを分かってくれているという意味ではなく、その人の存在を認めてくれている、許してくれているという意味なのです。わたしは、情けないことにわたし自身そういう辛い思いをしていたにも関わらず、そのことに、そのときまで全く気づいていなかったのです。何も分かっていなかったのです。
そしてこのことは、「人間を信頼する」ということを考える上でも大きな意味をもっているように思います。つまり、人間を信頼するということは、相手が自分を利するか、自分に害を与えるかというような利害的な、打算的なものではないのです。人間を信頼するとは、そんなことではなく、他人も自分と同じように自分の生をその人なりに一生懸命生きている、という、他者の存在を認めてあげること(存在肯定)、その上に成り立つような「信」ではないかと思うのです。そのことを抜きにしては、わたしは人間を信頼するということは語れないと思うのです。こうしたことが分かったことは、当時のわたしにとってはとても大きいことだったと思います。