以下の文章は、わたしが23歳のときに書いた当時のいじめ後におけるわたしの到達点です。
むろん、現時点でのわたしは(37歳)さらに精神的に進化(深化)していますが、今見返してみても読むに足るべき力のあるものだと思います。トピック⑫:「誇りをもって生きる」はまずはこの時点でのわたしの現実理解を開示するところからはじめてゆきたいと思います。
弱さの肯定学
わたしを長い間悩ませ続けたのは、自分の弱さに対する失望でした。先にも書きましたが、わたしはいじめによって自己肯定できなくなってしまいました。わたしには自己否定の道しか許されていませんでした。
どんなに自己肯定しようとしても過去のことを思い出すと、どうしても自分をクズだと思うしかありませんでした。過去において、自分がクズになってしまったという事実、これはわたしにとって絶対的であり絶望的でありました。
恋をしようとしても、勉強をしようとしても、自分がクズになってしまったという意識がそれをゆがんだものにしてしまうのでした。極度に自閉的になり、極度に卑屈になってしまうのでした。
そうした傾向をわたしは自覚していたと思います。しかし、自覚していてもどうしようもなかったのです。どうしようもなくなってしまうのでした。
しかし、前にも書きましたが、自分自身のことを本当にダメだと思っている人間はそのことを人に言うことはどうしてもできないのです。そういう意識を植え付けられてしまった人間にとって自分をクズだと言うこと、それは最も恐ろしいことなのです。しかしまた、本当に自分をクズだと思っていたら生きてゆくことはできないのです。どうやって生きていっていいのかわからないのです。わたしはこういうはまってしまった状態の中で我慢して生きてゆくしかありませんでした。
しかし自己を否定して生きてゆく、これは無理なことでした。人間はそのつど自己を肯定して生きてゆくものなのではないでしょうか。どんなにつまらないと思われるような人でもどこかに自己を肯定する道を見出しているのです。
しかし、わたしはそれがどうしてもできませんでした。そして、このはまっている状態こそ、わたしの「いじめ後」そのものだったのです。
それから8年という月日が流れ、ようやく自己を肯定する新しい道が開かれました。それは「うつ病」でした。うつ病はわたしが長い間はまっている状態で無理を余儀なくされていた、その結果だったのだと思います。精神科にゆくまでも本当につらい日々だったのに、その無理の結果さらにつらい思いをすることになってしまいました。本当に苦しく、厳しい試練でした。
しかし今から考えると不思議なことに、そのうつ病のお陰でわたしははまっている状態から抜け出すことができたのです。精神的・肉体的苦痛が最大限になってやっとそのことを人に言うことができたのです。もしそれがなかったら、いまだにわたしははまっている状態で抜け出せず苦しんでいたかもしれません。そして自分でしゃべったというよりも、うつ病に力づくで無理やりしゃべらされたというのが本当のところではないかと思うのです。
さて最後に、わたしを最も苦しませた「弱さ」についての問題を考えて『いじめ後』を締めくくりたいと思います。