(1) 苦悩の原因
ヨーロッパ哲学には「実存」という言葉があります。これをわたしなりに解釈すると、
人は、自分の人生の意義(意味)づけをめぐって展開している、ということです。
人は、いつも自分の意味・意義・価値を求めているのであり、それを追っているのです。そして、この意義づけがうまくゆかないと、つまり、自分の意味・価値を獲得することができないと、自己否定に走ってしまいます、自分には意味がない、価値がないと。自己否定とは、自己の意味(価値)の否定、を指しているのです。それは自己崩壊という事態のことです。
(例)わたしは自分の努力する力に自信をもっていました。努力し続ければ、いずれ人から尊敬されるような人にもなれると思っていました。つまり努力家の自分は価値があると思っていたのです。しかし、「彼」にたたかれ、ひざまずいた時、自分の自信は打ち砕かれ、名誉心は根絶やしにされました。自分がクズのダメ人間だと確信させられてしまった時、わたしはもう自分の中に意味・意義を見いだせなくなりました。その後には、自己否定地獄(自己崩壊)という過酷な苦悩が待っていたのでした。
(2)苦悩からの解放(自己否定地獄からの脱却)
苦悩からの解放・脱却は次のような「気づき」からやってくるのです。それは、
自分の人生の意味・意義(※)を追わなくても、たとえ自分の人生に意味・意義がなくても、人は、自分自身でいられるし、そのままのあるがままの自分でいていい、ということ、
この気づきのことです。
(※)この「意味」はわたし達がふだん使っているところの意味、つまり「相対的意味」のことです。
つまり、意味がなくても生きてゆける、ということへの「気づき」、この気づきが、そのまま、苦悩からの、自己否定地獄からの「救い」となるのです。
(例)わたしは、いつまでたっても自分の弱さを認めることができませんでした。どんなに努力しても、自分のブザマな過去を思うと、その弱さを思うと、自分を(無意味な)クズだとしか思えなかったのです。
しかしわたしは、次のようなことに気づいたのです。わたしは、弱さを克服して、強くなることによって自己実現するのではなく、弱さを、自分のかけがえのない個性として受け入れて、その弱さ(運命)とともに生きてゆくところに、自分が本当に自分であること、つまり自己実現があるのだということに気づいたのです。というのも弱いからクズというのは、自分に対する相対的意味付けにすぎず、どんな相対的意味も自分の自己実現を妨げることはできない、ということがわかったからです。それがわかった時、弱い人間 = クズ、という意味付けは、わたしの人生の中で無意味となりました。
その後、不安が全くなくなったとは、いえません。しかしそれ以降、自分が気の弱い人間だからということで、自分を責めること、さげすむことはなくなりました。そしてその時から少しずつ自分を愛せるようになっていったのです。
(3)人としての誇り = プライドなきプライド
人としての本当の誇りとは、プライド(相対的意味・価値)に依存しないあり方において立ち続ける強さのことであり、その覚悟であり、そのすがすがしさのことなのだと思います。そしてこれこそ、本当の意味で何者(物)にも依存しない・囚われない、自分自身の内に安らぐという意味で、真に自立したあり方、つまり精神的に自立したあり方のことなのです。
自立とは、最終的には、意味(価値)からの自立なのです。そしてそれが人にとって最高に自己実現したあり方なのです。以上が絶対的意味 = 超意味を自己肯定の根拠にもつということのまさに内実なのです。
そして真に自立した人は、相対的な意味・価値に囚われないから、どんな状況・現実においても自分自身でありえ、その現実を受け入れつつ、それに適切に対処してゆくことができるのです。