わたしは、いじめられてクズになったという体験、そういう体験をしなければならなかった自分の運命、そういう体験を引き起こす位自分が気の弱い性格(素質)をもって生れたという運命、を長いこと受け容れることができませんでした。肯定することができなかったのです。認めたくなかったのです。そんな星の下(運命)に生まれた自分を許せなかったのです。
なぜならその体験には、少しもよいところがなく(そう思われ)、むしろ軽蔑すべきものとしてしかわたしには理解することができなかったからです。そしてその過去の体験ゆえにわたしは、自分を否定して否定して否定しまくりました。いやなんとか肯定しようといつも試みてみましたが、過去の軽蔑すべき体験を思い出すとすべての試みが、そのことによって失敗に終わり、自己否定地獄が待っていたのでした。
では人の苦悩はなにによってもたらされるのでしょうか。それは他者からの否定体験によります。他者からの否定体験とは、自分がいいと思っていたことが、ダメだと他者から否定される体験のことです。
そしてその否定とは突き詰めると、自分に備わっているものに対する否定のことだとわかります。自分に備わっているものとは、何かの物とも考えられますが、もっと根源的なもので、その人にもともと備わっているもの、つまり主に自分の素質(才能、知能、肉体、容姿、身分)に関すること(※)です。
(※)そしてこの素質がいわゆる人のプライド・名誉心のベースにあるものです。いい大学を出ているのは、知能が高いから、仕事ができるのはその才能があるから、自分の大学や仕事の結果にプライドを持っている人は自分の素質にプライドを持っているのです。
前回、自己否定の対象は、具体的には、行動、体験、感情という話をしましたが、そもそもそれらを規定づけているものは、その人の素質なのです。これらのものは生まれもっているもので、同時に不変で変えられないものです。だから当然、これは自分からもそして他者からも肯定されるのが大前提です。
そして他者からの否定体験とは、この肯定されるべき自己の素質が否定されてしまうことなのです。他者からの否定体験とは、自分の変えられないところに対して否定される経験のことなのです。
特にいじめ行為とは、相手の素質的なことを意図的に否定することです。そして他者からの否定体験を真(ま)に受けるとき(※)、その否定の対象が自分にとって根源的で不可変的なものであるがため、人は深い傷を受けるのです。
傷とは、つまり自分にとって当然肯定されるべきことが、肯定できなくなるという事態のことなのです。他者からの否定体験によって傷つけられることは、人に深い苦悩をもたらすのです。
そしてこの苦悩は、傷ついた人が、そのトラウマから抜け出て、改めてより深いあり方で自分を肯定できるようになるまで続くのです。
(※)わたしがそうでした。 わたしは「彼」のいうことを恐怖の中で真に受けたのです。