「現代っ子」、わたしはその時こう思いました。わたしはなんて現代っ子なのだろうと思いました。「いじめ」、「受験」という時代を象徴するような事柄をわたしはかなり極端な仕方で背負い込まされて生きて来たのだと思います。わたしは実力テストで一番を取って、そのうれしさの余りスキップまでしてしまいました。そして、そのことによって初めてそれまでの自分の生き方の悲しさを思い知らされました。そのことが分かった時、悲しさと同時に、なんてわたしは現代っ子らしいのだと思いました。受験のための実力テストで一番を取ることによって初めてわたしは相対的なものに依拠して生きてきたことを知ったのです。そして、それがとても悲しいことなのだということを知ったのです。これは真実だと思います。こういう真実を、わたしは「いじめ」「受験」を通して知ったのです。なんて現代っ子らしい知られ方なんだと思いました。人は誰でも、その時代の制約を受けて生きてゆくしかないのです。真実もその制約を通して個々人に示されるのです。わたしの場合、それが「いじめ」であり「受験」であったわけです。これは何とも現代っ子らしい示され方だと思いました。わたしはそのことを思った時、
「ああ、僕も時代の子なのだな、ただ僕は時代の波に飲みこまれて生きてきたにすぎないのだな」とつくづく思いました。
時代性ということ思うと所詮人間の個性なんて、自分の個性なんてたいしたものではない(※)のだな、と思いました。わたしは時代の波に流されて生きて来たのに過ぎないのです。そして、これからもそうなのだろうと思います。わたしはその時初めて「時代」というものを意識したのです。その時からわたしは自分のことを、ただ自分自身としてではなく、時代の子として時代を背負っている典型的な「現代っ子」としてみるようになったのでした。
(※) それまでわたしは自分は結構個性的な人間だと思っていたのです。現代では、個性というものが称揚されますが、個性とは一体何なのかという根本的な議論は不問に付されているように思われます。