トラウマを生き抜くとは、トラウマと付き合ってゆくということを意味します。
トラウマと共存してゆく、と言ってもいいでしょう。
ところでなぜわたしは、トラウマと「付き合ってゆく」、というのでしょうか?
付き合うというよりも、むしろ縁を切りたい、無かったものにしたいと思うはずです。
それには、一つの抗しがたい現実と、わたし自身の哲学(信念)があるからです。
一つの抗しがたい現実とは、いじめトラウマによるこの今の生きづらさに対する特効薬というものは存在しないという事実、つまりトラウマからの回復には膨大な時間(3年、5年、10年、あいるはそれ以上)がかかる、という現実です。したがって、わたし達いじめトラウマサバイバー(いじめ体験生存者)は、この現実に即して、傷を持ちながらも、それでも生き抜いてゆくすべを身につけてゆかなければならないのです。
更にわたし自身の哲学(信念)とは、トラウマは、それ自体、悪ではなく、また邪魔物でもなく、トラウマは、その全体が、わたし自身の運命なのであり、もはやわたしのかけがえのない人生の一部なのだ、ということです。
わたしは、わたしのかけがえのない人生の一部を削除したり無かったものにする気は毛頭ありません。わたしは、それ(トラウマあるいは運命)とともに、それと一体になって、それでもすべての出来事をおのれのかけがえのない人生として受け入れて、愛して、そうしてあるがままの自分を愛して、誇りをもって生きてゆきたいと願っているのです。
そしてそれは可能なことなのです(それができないときわたし達は、出口のない自己否定的葛藤地獄の中にはまり込んでしまうのです)。
トラウマと付き合ってゆく、トラウマと共存してゆく、この自覚および覚悟にあって、そこではじめて、いじめトラウマからの回復に向けての自分自身の人生をスタートさせることができるのです。それはもはや単なるいじめ後ではありません。
正体不明の生きづらさの中で、盲目的にコントロール不能の人生を生きるよりも、苦しくても、生きづらさの本体と共存し、それと向き合ってゆこうと覚悟をもった人生において、わたし達いじめトラウマサバイバー(生存者)は、やがて、おのれの人生全体の見通しを得とくし、かけがえのない自分自身の人生を生きる可能性に開かれてゆくのです。(おのれの人生全体の見通しとは、自分がどこにいて、どこに向かって、いかに歩んでいるのか、が見えるようになること、つまり、自分が何者であるかがわかるようになること)
わたし達のゴールは、つまりトラウマを克服するということは、いじめトラウマを生き抜きながらも、それと同時に、自己実現すること、つまり自分の人生を誇りをもって愛することができるようになること、なのです。