なぜいじめの事実を親にいえないのか、このことはわたし(いじめられ当人)にとっても最も大きなテーマの一つでした。そのことについて「心の傷」という視点から答えてみたいと思います。
わたしにとって心の傷とはせんじ詰めると次の二つになると思います。つまり、恐怖心と自己否定です。このうち恐怖心は長い間わたしの中で強く猛威を振るいましたが、8年近くもの(※)長い時間がその傷ついたわたしの心を経験的に癒してくれました。もちろんまだ十分に癒されたとは言えませんが、少しずつですがこれからも癒されてゆくのではないかと思います。恐怖心のほうは自己否定に比べてわかりよいですが、自己否定の方は少し複雑のような気がします。そこでここでは自己否定の「傷」について問題にしたいと思います。
(※)中3のいじめ体験から8年ということです。
自己否定の傷とは一体何でしょうか。それは簡単に言うと、
自分のことを本当にクズだと思っている、ということです。
本当にクズだと思っている、ということが「傷」、なのです。
言えないことがわたしの傷の意味なのです。
過去において傷つけられたのではなくて、自分が本当にクズであると思いこんでいるのです。思いこんでいる訳ですから、本人はそのことを傷だとは思っていません。悲しい真実だと思っているのです。それが客観的に見ると、お前はクズだと植え付けられてしまった者の心理ということです。
たとえ「君はもうクズではないよ」と言ってもらったとしても、そんなことは(思いこんでいる、つまり傷ついている)当人にとっては何の意味もないのです。
自分を表現しようとするとき、その前提として自己肯定が遂行されているのです。自分が「自分たり得る」(自分として自己表現・主張できる)のは、自分が自分を「善きもの(存在していていいもの、あっていいもの)」として肯定しているときのみです。もし自分を善きものとして肯定できなければ、自分は自分を表現・主張できないのです。
つまり自己表現するためには、自己肯定(自分を善きものとして肯定すること)が必要なのです。しかし、わたしはその自己肯定ができなくなってしまったのです。
「自己肯定できなくなってしまったこと」、が「傷」なのです。
自己表現できないのが傷なのです。
「言えないということ」がわたしの「傷」の意味なのです。
誰もが遂行している根本的な自己肯定が傷つけられてうまくできなくなってしまった、それがわたしの最も大きな傷なのです。
だから過去の出来事が言えないのではなく、自分自身を言うこと(自己表現すること)ができないのです。
過去のことがわたしにとって恥なのではなく、わたし自身が恥(クズ)だと思っているのです。
自分の親にわたしはクズですということは、愛してくれる人に対する最大の踏みにじりなのではないでしょうか。少なくともわたしはそう直感的に理解していました。否、君はクズじゃないよと言ってくれる人がいるかもしれませんが、それが通用しないから傷なのです。
いくら頭でクズじゃないと思っても、体がわたしをクズだと思いこんでいるのです。だからやはりどうしても言えないのです。それが言えるのであれば傷ついているとは言わないのです。
言えないということが傷なのです。言えないことがわたしの傷の意味なのでした。