ドイツ文学を代表する作家ヘルマン・ヘッセの作品『デミアン』を紹介します。『デミアン』に出てくる主人公のいじめ体験の描写はまさに「いじめ文学」の最高峰といってもいい出来映えです。素晴らしい文学的表現によって、「いじめの真実と人生、運命」というテーマへと読む者を引き込まずにはおきません。わたしはヘッセ自身のいじめ体験がもとにあるのだと確信しています。あなたはどう思うでしょうか?!これから『デミアン』のいじめ描写の主だっ部分を紹介してゆきますが、興味を持たれた方はぜひ全編を読んでみることをお勧めします。(以下、『デミアン』 (新潮文庫、高橋健二訳) からの転載となります。転載に当たり、日本文芸家協会より許可をいただいております。)
そのあいだにも、フランツ・クローマーと私とのことはのっぴきならぬ歩みを続けていった。私は彼からのがれられなかった。ときとして数日間彼に悩まされないことはあっても、私はやはり彼に縛りつけられていた。彼は私の影のように、私の夢の中にもいっしょに生きていた。現実に彼が私に加えないような害さえ、この夢の中で私の空想が彼にそれをやらせた。夢の中では私はまったく彼のどれいになった。私は―いつも夢を見る傾向の強い人間だった―現実の中でよりもより多くの夢の中に生きていた。その幻のために私は力と生気とを失っていった。とりわけ、クローマーが私をむごいめに会わせ、私につばをはきかけたり、私の胸にひざを押しつけたりする夢をたびたび見た。もっとひどいことには彼が重い犯罪に私を誘う―誘うのではなくて、むしろ彼の強い威力によってむぞうさに強制する夢を見た。これらの夢の中でいちばん恐ろしかったのは、私の父に対する殺害の夢だった。それからさめたとき、私はなかば精神錯乱に陥っていた。その夢では、クローマーがナイフをとぎ、私の手に握らせた。私たちは並木道の木の下に立って、だれかを待ち伏せていた。だれを待ち伏せているのか私は知らなかった。だが、だれかがやって来、クローマーが私の腕を押して、刺し殺さねばならないのはあの男だと教えたとき、見れば、それは私の父だった。そこで私は目をさました。
(中略)
おそらく両親は、私のこうした状態に少なからず悩んだだろう。私は異様な霊に取りつかれ、あれほど親密だったわが家という団体ともはや調和しなくなった。しかも私は、しばしばわが家に対し失楽園に対するような狂おしい懐郷心に襲われた。私は、特に母から、悪漢のようにではなく、むしろ病人のように取り扱われた。しかし実際の状態がどうであったかは、ふたりの姉の態度によって非常によく知ることができた。いたって寛容ではあったが、私にははてしなく情けない思いをさせた姉たちの態度は、私が一種魔につかれたもので、その状態は、こごとよりも哀れみに値するものだということ、そして悪に心を占領されてしまっているものだということを、はっきり示していた。みんながいつもとは違った祈りを私のためにしてくれているのを、しかしその祈りのむだなことを、私は感じた。苦しみの緩和へのあこがれと、正しいざんげへの願いを、私はたびたび燃えるように強く感じたが、同時に、父にも母にも正しく話し説明することはできないだろう、ということを予感していた。みんなはやさしく聞き取ってくれ、私をおおいにいたわってくれ、同情さえ寄せてくれるだろうが、十分にはわかってもらえず、その全体が運命であるのに、一種の脱線としか見てくれないだろうということを、私は知っていた。
まだ、十一歳にもならない子どもがそんなふうに感じることができる、などと信じない人が少なくないことを、私は承知している。そういう人に私の身の上のことを話しているのではない。もっと人間をよく知っている人に話しているのだ。自分の感情の一部を思想に変えることを学んだおとなは、子どもにはこの思想が欠けていると思い、子どもには体験などもないと考える。私はしかし一生のあいだあの当時ほど深く体験し、悩んだことはごくまれにしかない。
(『デミアン』 作:ヘルマン・ヘッセ、訳:高橋健二)