ドイツ文学を代表する作家ヘルマン・ヘッセの作品『デミアン』を紹介します。『デミアン』に出てくる主人公のいじめ体験の描写はまさに「いじめ文学」の最高峰といってもいい出来映えです。素晴らしい文学的表現によって、「いじめの真実と人生、運命」というテーマへと読む者を引き込まずにはおきません。わたしはヘッセ自身のいじめ体験がもとにあるのだと確信しています。あなたはどう思うでしょうか?!これから『デミアン』のいじめ描写の主だっ部分を紹介してゆきますが、興味を持たれた方はぜひ全編を読んでみることをお勧めします。(以下、『デミアン』 (新潮文庫、高橋健二訳) からの転載となります。転載に当たり、日本文芸家協会より許可をいただいております。)
家に上がった。ガラス戸のそばの衣類かけに、父の帽子と母の日がさがかかっていた。そうしたすべてのものから、わが家と愛情が私に向かって流れてきた。私の心はそれらのものに、放蕩息子がなつかしい故郷の部屋の様子とにおいに対するように、嘆願と感謝とを以てあいさつした。しかし、それらすべては、いまやもう私のものではなかった。それは明るい父母の世界だった。私は罪を追って深くよその流れに沈み、冒険と罪に巻き込まれ、敵におどされ、危険と不安と汚辱とに待ち受けられていた。
(中略)
これまでもどんなに多くの秘密、どんなに多くの不安を持ったとはいえ、それは、きょう私がこの家の中に持ち込んできたものにくらべれば、すべて遊戯、冗談にすぎなかった。運命が私を追っかけて来、両手を私に向かってのばしていた。それに対しては、母も私をまもることができなかった。またそれを彼女に知られてはならなかった。私の罪悪は盗みであったか、あるいはうそであったか(私は天地神明にかけて偽りの誓いをしてしまったではないか)―それはどちらでも同じことだった。私の罪はそのいずれかではなかった。私の罪は、悪魔に手をさしのべたことであった。
(中略)
一瞬のあいだ、私はもはやあすに対する恐怖を感ぜず、なによりも、自分の道がいまやしだいに下り坂になり、やみに通じているという、恐ろしい確定的な事実を感じた。自分のあやまちから新しいあやまちが続いて起こってくるにちがいないということ、姉たちのそばに行くことや、両親に対するあいさつやキスも偽りだということ、自分の心の中に秘めた一つの運命と秘密を背負っているということ、そういうことを私ははっきりと感じた。
(中略)
いまは一つの秘密、自分ひとりでなめつくさねばならぬ一つの罪を持っているのだということを私は知っていた。たぶん私はいままさに岐路にたっているのだった。たぶん私はこのとき以後永久に、そしてたえず、よくないものの仲間になり、悪者たちと秘密を共にし、彼らに左右され、彼らに服従し、彼らの同類とならねばならないだろう。私はいっぱし男らしく英雄の役を演じた。いまはその結果として起こってくることを忍ばねばならなかった。
(中略)
私がはいっていったとき、私のくつのぬれているのを父がとがめたのはありがたいことだった。それでわき道にそれ、父はもっと悪いことに気づかなかった。私はこごとを忍びながら、それをひそかにほかのことに結びつけた。すると、奇妙な新しい感情が心の中にきらめいた。それはとげに満ちた悪い鋭い感情だった。つまり、私は父に対して優越感をいだいたのだった。私は父のうかつさに対し一瞬ある軽蔑を感じた。ぬれたくつに対するこごとはささいなことに思われた。「もし、ほんとうのことを知ったら」と、私は、思った。
(中略)
この体験全体を通じて、この瞬間が、重要なもの、あとまで響くものであった。それは父の尊厳に加えられた最初のひびであった。私の子ども時代の生活の土台になっていた柱に加えられた最初の切りこみだった。しかしその柱は、すべての人が自己自身になるためにはまず破壊されねばならなかった。だれにも見えない、こうした体験から、われわれの運命の内的な本質的な線は成り立っているのだ。そうした切り口やひびは、ふたたび癒着し、忘れられるが、隠密なところに生きつづけ、血をながしつづける。
(中略)
私は、自分の世界、自分のよい幸福な生活が過去となり、自分から離れてしまったのを、こごえる心をもってながめずにはいられなかった。
(『デミアン』作:ヘルマン・ヘッセ、訳:高橋健二)