次にわたしは初めて、宗教的なものについて考えることができるようになりました。宗教とは、先に述べた相対的ではない何かをテーマとしているのです。そういうものとして初めてわたしは宗教について考えることができるようになりました。宗教はそれが普遍的な価値を持つ限り、常に「愛」をテーマにします。その愛は恋愛の「愛」ではなく、人類愛の「愛」です。わたしはその時初めて人類愛について考えることができるようになりました。それまでは人類愛などと聞いても、自分には縁のないことだ、人一人愛することもできないのに人類すべてを愛するなど、なんてむちゃなこと言うのだろうと思っていました。しかし、その時わたしは既に人類愛について考えることができるようになっていました。なぜ「人類愛」なのか分かるような気がしました。同時に「神」や「信仰」について考えることができるようになりました。それを自分の問題として考えられるようになりました。人間は愛するしかないんだ、という風に思いました。特定のこと、形あるもの、相対的なもの、そう言った特殊的なものを愛し、執着することは必ず限界があり、いつかは崩れるものだ、だとすればすべての人を、すべてのものを何の差別もなく愛することだけが、本当に人間が幸せになれる道なのだ、それこそ相対的でない何かに依拠する生き方なのだ、とわたしは思いました。わたしはその時から、宗教的な書物を読むようになりました。「愛」について考えるようになったのです。
以上のことをわたしは、ほとんど1日にして理解することができました。しかし、そのことが分かるためには、7年(いじめ体験から)もの長い時間をかけなければならなかったのです。そして、それは現役合格失敗 = 非人間というところまで極限化されてやっと理解されたものなのでした。今思えば、大学現役合格していたらわたしはそのことに気付くのに、さらに数年、もしかしたら何十年かかっていたかもしれなかったのです。そう思えば現役失敗はわたしにとって本当は、挫折・絶望ではなく、救いであったとも言えるのです。しかしその救いは、当時のわたしにとっては、口に出しては表現できないくらい厳しく辛い救いだったのでした。それを救いと思えるようになるには、更に3年の時を待たねばならなかったのでした。