もちろん、今のわたしにも、恐れや不安はあります、でもそれは以前のものとは違うのです。
以前の恐怖は、わたしが誰かから、わたしのかけがえのない人生を破壊されてしまうのではないか、という恐怖でした。
しかし、この「誰かから破壊される」ということ(出来事)も含めて、「わたしのかけがえのない人生(出来事)」なのだということを知ってしまった以上、それは、それとしてはもうわたしの脅威にはならなくなっていました。
わたしの不安は、「それがわたしの人生だったのだ」という真実から離れて、再び自分自身を「もの」として扱うようになり、現実を他なる対立物・外敵とみるあり方に転落してしまうことなのです。「出来事としてのわたし」という自覚から再び転落してしまうことがもっとも恐ろしいことなのです。
そして今、そうした悟りを通して実感していることは、わたしは、わたしの人生を、その人生のままに(与えられた運命のままに)、生き抜く、という「覚悟」なのです。いまわたしは、「下村順一という出来事を遂行する」ということに、燃えるような情熱をもっているのです。そしてそれは別言すると、わたしをあるがままのわたしとしてゆるし愛する、という「自己愛」に帰着することになるのです。
< 下村順一の誓願 >
わたしは、わたしを、ゆるしてゆるしてゆるし抜く、愛して愛して愛し抜く。
それが他者をも愛し、やがては神をも愛するということになるのだ。
いじめ体験を通してわたしが学んだことは、自己存在の真実であり、現実に出会う一つ一つのことが、「それがわたしの人生だったのだ」という風に自分自身(の人生)と一つであること、そしてそういう真実を愛するということ、その真実性のことなのです(※)。
(※)真実(知識)は愛されるためにあり、真実(知識)を愛することそれ自体が自己存在の真実(性)なのです。