今、あなたの現実とは、ということで少しお話しましたが、それでは、人にとって、もっとも根本的でかつ客観的な現実とはなんでしょうか。
それはすべての人に当てはまるべき現実の内容です。それはつまり、
「自分は、あるがままのそのままの自分で、あってよい」
「自分は、無条件に、この世で、あるがままのそのままの自分で、存在する(※)ことを許されている」
(※)「生活する」ではありません、「存在する」です。
という「自分(あなた)に対する現実」のことです。この内容を理解していること、それをここでは、「根本的な現実理解(自己理解)」といいます。
そして冒頭に述べた、心の傷において、現実理解が歪むとは、何らかの原因で、この自己理解が傷つけられて、
「自分は、あるがままのそのままの自分で、あってはならない」
「自分は、ある条件の元でしか、あるがままのそのままの自分で、存在することを許されていない」
という風に歪んで自己を理解してしまうことなのです。
すべての心の傷、現実理解の歪みの根本は、ここにあります。
人は、無条件に、あるがままのその人で、この世の中で存在していていいのです。それが、人が自分として、この世の中で立ってゆく上での大前提の自己理解なのです。
人はこうした根本的な自己理解を主に幼少期の両親からの養育において、無条件に愛してもらい・かわいがってもらうことを通じて、培われるのです。ところが人間は成長して行き、学校へ行って、社会へ出て行き、その社会の中で生活して(※)ゆくに当たって、たくさんの条件を課されてゆきます。条件をクリアすることを要求される生活者となってゆきます。
(※)「存在する」でありません、「生活する」です。
この「存在する」と「生活する」を使い分けるのは、ちょっと理解が難しいかもしれません。
生活するとは、何かのために生きるということ、 それに対して、存在するとは、自分のために生きるということ、と言っておきましょうか。生活にとって生きることは手段であり、存在することにとって生きることはそれ自体目的なのです。むずかしいですね。
簡単にいえば、
「それができなければ、あんた、ダメよ」
というメッセージをたくさん受け取るようになるのです。
それは人として、人間社会で「生活してゆくため」に、必要なルール・課題であって、いたしかたない要求ではあるのです。そして「ダメよ」と言われるのは、その人のある条件下でのある側面に対して言われているに過ぎないのです。決して、そのことで、その人の「存在自体」(※)に対して、Noを言っているわけではないのです。
(※)あるいは、「人格」というほうがわかりやすいでしょうか。その人の存在全体を意味しようとしています。
また社会や他者は、その人をある条件下である側面について、Noをいう権利や場合によっては義務を持っています(例えば管理職が部下に対してダメ出しをする)が、その人の存在自体に対してNoを言う権利をもっている者など誰もいないのです(※)。そしてそれをすることは決してあってはならないこと・許されないことなのです、人として決してしてはならないことなのです。
(※) それを「おもう」ことはあるかもしれません。たとえば、あんな奴死んじゃえばいい、とかおもうことはあるかもしれません。でもそれを行動に移すのはあってはならないことです。相手の存在全体を否定するために暴力をふるうことはあってはなりません。
これは人間社会で生きてゆく上でのすべての人にとっての暗黙のルール・大前提なのです。もし、それを犯すとすれば、それは人間存在に対する蹂躙(じゅうりん、ふみにじること)行為と呼ばれるべきものであり、すなわちこれが「悪の行為」ということです。別の言い方では、これを人権の侵害とか、人の尊厳の冒涜とかと言うこともできると思います。
そしていじめ行為は当然のこの悪の行為の一つといえるのです。