24. 現役合格の失敗

いじめトラウマを生き抜く方法

過去のいじめで苦しんでいる(いじめ後遺症の)あなたへ。いじめ後遺症うつ病者本人が、自身の、いじめ体験・いじめトラウマ体験・うつ病闘病体験について語ります。いかにトラウマを生き抜くかを考えます。いじめ自助グループ、トラウマ無料スカイプ相談など。

24. 現役合格の失敗

とうとう大学入試が始まりました。わたしは4つの大学を受けました。都立大、上智大・国文、明治大・文、早稲田大・文でした。第一志望は上智大学でした。わたしは絶対に現役で入りたいと思っていたので、割と早い時期に希望大学を決めました。志望理由は、まず第一には慶応大に相当する大学であったということです。これは「彼」と同じラインに立つためにどうしても必要だと思いました。次に、私立であったということです。わたしの家はあまり経済的に余裕がなかったので国立にしたかったのですが、国立は科目数が多く、わたしはたくさんのことを広く、浅く勉強するよりも、1つのことを深くやることの方が得意だったので、科目数の少ない私立を選びました。これもひたすら現役で合格するがための選択でした。すると必然的に目標とする大学は、早稲田、慶応、上智に絞られてきました。慶応は当然初めから考えていませんでした。幼稚だと思われるかもしれませんが、「彼」が通っている学校など絶対に入りたくありませんでした。それで早稲田にするか上智にするかという段になりました。早稲田は伝統もあり自由な大学ですが、マンモス校であるということと、自由すぎる嫌いがあるという点で教育機関としては疑問を感じました。その点上智は、小人数制教育をモットーにしており、カリキュラムもしっかりしていたので惹かれました。わたしにとって現役でしかもある一定のレベル以上の大学に合格することはもっとも大切なことだったのですが、大学に入ったら本気で学問をやりたいと思っていたので、結局上智を第一志望にしました。国文科を選んだのは、そんなに強い理由があった訳ではないのですが、当時のわたしとしては、やはりわたしはこれからどうやって生きていったらよいのだろうか、という不安が強かったので、文学・思想にひかれたのだと思います。わたしは上智を第一志望と決めてから、勉強を上智大受験に絞ってやりました。とにかく上智大に受かればよかったのです。したがって他の3校はついでに受けたようなものでした。本当は上智1校だけでよかったのですが、親も担任の先生も何校か受けることを勧めたので、滑り止めぐらいの気持ちで明治大・文を、同じレベルの大学として早大・文を、そしてセンター試験が3科目で受けれる都立大・人文を受験することにしました。

 

さて、受験結果ですが、全滅でした。まず都立大がセンター試験の段階で足きりされてしまいました。これは、あまりこたえませんでした。センターで切られたのは予想外でしたが、初めからあまり重きをおいていなかったので、親はがっかりしたようでしたが、あまりわたしは落胆しませんでした。続いて、2月に入っていよいよ私立大の受験シーズンがやってきました。一番初めに第一志望の上智の試験がありました。わたしとしてはベストを尽くせたと思いました。強い自信はありませんでしたが、あれだけ勉強してきたのだからまさか落ちるわけないだろうと思いました。合格結果は数日後、電子郵便で自宅に届けられたのですが、わたしはそれを自分の部屋で開きました。しかし結果はダメでした。その瞬間、わたしの中で再び何かが終わりました。目の前が真っ暗になりました。わたしの人生もうおしまいだと思いました。高校3年間あれだけ綿密に計画を立てて努力したにもかかわらず、落ちてしまったのです。わたしにはもう自己弁護する余地も残っていませんでした。クズのダメ人間であることが決定してしまったのです。わたしを救うものはもうなにもなくなってしまったのです。すべての希望は奪われてしまいました。わたしはそのままほとんど寝込んでしまいました。しかし、寝込む前に店で働いている(うちはクレープ屋なのです)母に電話することは、忘れませんでした。母は電話で試験の結果を知り、わたしに明るい声で「残念でしたあ」と言ってくれました。もうそれからというものわたしは何もする気力がありませんでした。明治と早稲田の試験が残っていましたが、過去問をやる力もわたしに残っていませんでした。わたしはすべての力を使い果たしていたのです。

 

上智の結果が出た後、明治の試験までは何もやれずにほとんど寝込んでいました。やがて明治大の試験がやってきました。試験は予想外に簡単でした。かなり自信をもって答えることができました。明治大は何とか合格できそうだ、そう思いながら家に帰って行きました。少し調子が上がってきました。たとえ明治大に入ることになったとしても、明治だって今では一流大学のうちだ、現役ではいれれば何とか許せる範囲ではないだろうか、と自分で妥協だと分かっていても試験ができたことの自信がわたしの気持ちを少しだけ持ちあげてくれました。明治大に現役で入るのだってたいしたものだ、とわたしは自分に言い聞かせました。

 

明治大合格発表の日がきました。明治は試験番号を掲示するので、校舎まで見にゆかねばなりませんでした。駅を降りた時、わたしの足取りは軽やかでした。掲示は10時頃からだったのですが、わたしはお昼頃出かけて行きました。わたしはちょっと調子に乗って「あ、あの子は落ちたような顔をしている、かわいそうに、お、あの子は受かったんだな」などとふしだらな推測をしてみたりしました。しかし、だんだん校舎に近づくにつれドキドキしてきました。だんだん心配になってきました。「落ちてたらどうしよう、いや、そんなことはないはずだ、簡単だったじゃないか、大丈夫だ」と自分に言い聞かせました。

 

いよいよ校門の前の歩道橋に差し掛かりました。この歩道橋を渡ってしまえばすぐそこです。高鳴る胸は押えきれませんでした。「大丈夫だ、大丈夫だ」と何度も自分に言い聞かせました。校門をくぐりました。掲示板が見えてきました。到着しました。わたしは急いで自分の番号を探しました。ありませんでした。わたしはすぐ補欠合格者欄を見ました。ありませんでした。わたしは呆然としました。「ない、ない、ない、ない」この言葉がわたしの頭を呪文のように駆け巡りました。しばらく立っていましたが、ようやくあきらめて帰ろうとして後ろを向きました。しかし、まだ信じられなくて、もう一度掲示板をみました。やっぱりありませんでした。再び後ろを向きました。しかし、まだ信じられなくて、もう一度掲示板を見ました。ありませんでした。ようやくあきらめがついて、今度こそ本当に帰ろうと思いました。後ろを振り向き歩き始めたとたん母のことを思い出しました。すぐに落ちたことを連絡しなければいけないと思いました。そう思ったとたんわたしは、涙が出てくるのを止めることができませんでした。「申し訳ない」とわたしは思いました。いつもわたしのことを思いやってくれ、愛してくれた母のことを思うと涙がと止まりませんでした。あんなにわたしを愛してくれた母に、また、明るい声で「残念でしたあ」と言わせねばならないのかと思うと、申し訳なくて、申し訳なくて、本当に悲しく思いました。不合格を母に知らせることは、そのときのわたしにとって死ぬほど辛いことでした。なぜなら、わたしにとって現役で大学に受からなかったことを母に伝えることは、同時に、わたしがクズのダメ人間であることを母に伝えるのと同じことを意味したからです。自分を愛している人に、自分を大切にしてくれている人に自分はクズですと言わねばならなかったのです。本当に辛いことでした。しかし、どうしても、わたしはそのことを母に一刻も早く知らせねばと思いました。

 

しかし、まだわたしはキャンパスの中にいました。ふと我に返ると、わたしは他人の目に気づきました。そんなときでも、やっぱり自分が落ちたことを人に知られるのは嫌なのです。こんなところで泣いたら、みんなに落ちたことが分かってしまうではないか、と思いました。母のことを考えると涙が出て来てしまうので、なるべく母のことを考えないように歩き始めました。校門を出たすぐそこに公衆電話があったのですが、そこで電話をすると泣いているのが見られてしまうのでやめました。わたしは涙を抑える努力をしながら駅まで歩いてゆきました。駅にも公衆電話はありましたが、やはり結果を見にゆく、あるいは、見てきた受験生が多くいたので、電話するのは控えました。そうして電車に乗って、新宿まで帰って来ました。別に家に帰ってから電話してもよかったのですが、そのときはどうしても一刻も早く結果を知らせなければいけないと思いこんでいましたので、わたしは新宿駅の改札を出たすぐの公衆電話に飛びつきました。しかし、いざ電話をかけようと思うと胸が痛みました。また母をがっかりさせるのだと思うと死ぬほどつらく思いました。このままどこかへ消えてなくなりたいような気持ちでした。しかし、知らせなければいけない、すぐに知らせなければいけないと、わたしは思いました。とうとう電話をかけました。母が出ました。母の声が聞こえました。
わたしは言いました、

 

「明治落ちちゃったよ」

 

言い終わるか終らないうちに、わたしの目から涙があふれでました。もうわたしは周りのことなど気にしていませんでした。わたしは泣きながら、声になるかならないような声で、「ごめんなさい、ごめんなさい」と言い続けました。申し訳ない、申し訳ない、その気持ちでいっぱいでした。こんなにやさしい、素敵な母をわたしはまたがっかりさせるのだと思うと、悲しくて、辛くて、みじめで、申し訳なくて、たまりませんでした。今まで抑えてきたものが、しゃべったとたんに、一気に押し寄せてきました。しばらくわたしは、泣きながら「ごめんなさい」を連発していたのですが、母が「あなた、大丈夫?」とこんなわたしを心配してくれているのが分かったので、これ以上心配かけてはいけない、甘えてはいけないと思い、何とか泣くのをやめて「大丈夫だから」と言って電話をおいたのでした。

 

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偏差値によって辱められ、偏差値によって踏みにじられたわたしにとって、中学から高校にかけて、偏差値を上げることだけがわたしの唯一の生きがいだったのです。愚かで悲しいことですが今になってやはりわたしはそう告白しなければなりません。

 

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