02.弱さの肯定学②・・・運命と不可避性

いじめトラウマを生き抜く方法

過去のいじめで苦しんでいる(いじめ後遺症の)あなたへ。いじめ後遺症うつ病者本人が、自身の、いじめ体験・いじめトラウマ体験・うつ病闘病体験について語ります。いかにトラウマを生き抜くかを考えます。いじめ自助グループ、トラウマ無料スカイプ相談など。

02.弱さの肯定学②・・・運命と不可避性

今、わたしの半生を振り返ってみると、それは自分自身の自力性(自分の力で○○する)が打ち砕かれてゆく過程でした。本当に自分の力でやれたと思えるようなことはないのです。すべてが何か「自分を超えた見えない力」(※1)にあやつられて生きてこさせられたとしか思えないのです。

 

これはある意味で非常にしゃくに障ることです。自分の力で、例えば自分の自由な意志で人生を選び取ってきた、と言えばとてもかっこいいんじゃないかと思いますが、しかし、今のわたしにはそんな自由などという言葉は信用できないし、意志などという言葉も信用していないのです(※1)。本当はそういう言葉を使って自分の人生を振り返られればいいのかもしれませんが、最近ますます自力性ということは信用できないし、自分を超えた見えない力というものの存在を認めざるえない心境になってきました。

 

(※1)宗教的な意味でとることもできますが、そういう風にとらないでも、要するに、 自分の力で生きてきたという感じ・言い方に違和感を持つようになった結果、とすれば自分の力以外の何者か、が根底において自分の生を支配しているのではないか、というところで出てくる「力」のことです。それは必ずしも神である必要はないのです。

(※2) 現代ではあまりにも「自由」や「意志」というものが自明のものとされ、価値あるものとして尊重されていますが、「自由」も「意志」も簡単には語れないことのようにわたしには思えます。特にいじめ・いじめ後体験を生き抜いてきたわたしには簡単に自明のものとしてそれらをとらえたくないのです。

 

その自分を超えた見えない力によって定められたその人のそのつどの人生の物語、これをわたしは「運命」と呼びたいと思います。わたしはもうこのことなしには自分の人生について考えることはできません。

 

わたしがどうこの運命と共に生きてゆくか、それがわたしにとって、今や最大の関心事なのです。

 

ここで大切なのは運命と共に生きる、ということです。

ところが多くの人はまるで運命を対象物かのように自己に対峙させているのではないでしょうか。例えば、そういうところから「運命に負けるな」とか言う言い方も生まれてくるのだと思います。しかし、負ける負けないの世界ではないのです。

 

そのつどの運命(現実)がその人の人生そのものなのです。この世の中に生まれてきたこと自体、運命なのです。そして運命と競って生きてゆくのではなく、運命と共に運命と一体になって生きてゆくことこそ本当の生き方ではないかと思うのです(※3)。こう書いてくると消極的なように聞こえるかも知れませんが、運命を認め、運命と共に生きてゆくことの方がはるかに勇気のいることで積極的なものなのです。そこにまた本当の自由もあるのではないかと思うのです。

 

(※3)別言すれば、変えられないこと(運命)を変えられないものとして、受け容れて、その現実の中で幸せになってゆこうとすること、そういう生き方・あり方。

 

ところでこの運命と、人間の意志との関係を突き詰めてゆくと意志についての根本的なありようにぶち当たるように思います。それは「不可避性」(避けれなさ)(※4)です。

 

(※4)つまり意志(自己意志)を突き詰めてゆくと、最後には、自分でないものの意志、が姿を現すということです。それは自分の意に反して「そうせざるえなかった」というあり方をする意志・判断のことです。例えば、わたしが「彼」にいびられて、それでもわたしは反撃できず、醜く愛想笑いをしていたというのは、わたしの意に沿うことではなく、そのときのわたしにはそうするよりほかなかったのです。それは自己意志(自分で判断して意志したこと)というよりも、とにかくその時わたしはそうせざるえなかったのです。その時のわたしの意志のありようは不可避的だったといえるでしょう。

 

不可避性というものは、物事が自分の思うようになっている間はその人の中でなりを潜めています(それもまた運命なのですが)。しかし、その人の中で何かが崩れたとたん、運命は不可避性としてその姿をあらわすのです(※5)。

 

(※5)運命の本質は、ある状況でその人がそう判断し意志してしまう、ということではいか。

 

つまり、運命が本来の姿でその人のうちに強く働きかけてくるのは、もうそうするより他しょうがなかった、という状況においてなのです。つまり意志・判断を不可避的に強いられる時なのです。この言葉の意味には自分の力(意志力・判断力)ではどうにもならない、ということが既に含まれているのです。

 

つまりそのつどの自己の限界(※6)にぶつかったときに不可避性は「無力さ」(弱さ)(※7)としてあらわになるのです。

 

(※6)自分の力による現実のコントロール不能状態

(※7)無力さ、現実をコントロールできないおのれの無力さ。そして無力さはわたしにとって相手に対して闘うことができない自分の「弱さ」と思われた。

 

限界とはすなわちその人の無力さ(弱さ)なのです(をあらわしているのです)。

このときこそ自己を超えた見えない力の存在を思い知らされるのです。自己はそれ(その力)に対して相対化されるのです(※8)。

 

(※8)自分こそが自分を支配する絶対的存在なのではなく、自分を超えた見えない力の方が、本当の支配者・絶対者であるということ、それに気づかされること。

 

しかしこれは否定すべきことでも悲嘆すべきことでもないのです。この無力さ(弱さ)(意志・判断力の不可避性)を通して人は運命というものに巡りあえるのです。無力さこそ、そして不可避性への気づきこそ人を運命に導くものなのです。

 

そして運命とそういうものとして巡り合うことは、真実の人生への入り口なのです。なぜなら、運命を受け入れるというところにこそ、生きる意味があるからです。

 

だからおのれの不可避的な無力さを運命として自分の中に積極的に取り入れるということは、意義のあることなのです。吉本隆明さんは「人間とはただ不可避に促されて生きるものだ」(『最後の親鸞』)と述べていますが、まさにその認識こそ真に自由になれる唯一のかぎなのではないかと思うのです。

 

この不可避性に対する洞察がわたしにとって一体どのような意味をもっていたのかということについて次に書いてみたいと思います。

 

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