12. 『真昼の悪魔』に見るうつ病と希望⑥

いじめトラウマを生き抜く方法

過去のいじめで苦しんでいる(いじめ後遺症の)あなたへ。いじめ後遺症うつ病者本人が、自身の、いじめ体験・いじめトラウマ体験・うつ病闘病体験について語ります。いかにトラウマを生き抜くかを考えます。いじめ自助グループ、トラウマ無料スカイプ相談など。

12. 『真昼の悪魔』に見るうつ病と希望⑥

うつ病を失った幸せな日、私たちはそれとともに大きなものを失うだろう。もし地球が雨なしで大地と人間を養うことができたら、もし人間が天気を征服して永遠に続く晴天を宣言したら、私たちは曇り空や夏の嵐を恋しく思い出さないだろうか?陰鬱な空が一〇か月続いたあとに、イギリスの夏にはめずらしく美しい日が来ると、そのときの太陽が、おそらく熱帯でとこしえに輝いているものよりもずっと明るく、鮮やかに思えるのと同じように、このところの私の幸せは、あまりにも豊かで、愛しくて、想像もつかないほどすばらしいものに思われる。不思議としかいいようがないが、私はうつ病を愛している。うつ病中の経験は愛していないが、うつ病そのものは愛している。それに続いて現れた新しい私を愛している。(略)うつ病という強制収容所に連行され、それを生き延びて以来、たとえもう一度収容所に行かなければならない日が来ても、私はまた自分が生き抜いていけることを知っている。自分の想像をはるかに超えて、奇妙な自信に満ちている。さて、以上のことが、うつ病を価値のあるものにしているとおもわれるほぼ(完全ではないが)すべてである。

 

ふたたび自分で自分を殺そうとする日は、おそらく決して来ないだろう。たとえ戦場におもむこうと、乗った飛行機が砂漠に激突しようと、あっさり人生をあきらめたりしない。生き延びるためなら、歯と爪を使ってでも戦うだろう。まるで私の人生と私が、向き合って別々の場所に座り、お互いを憎みながら、お互いから逃れようとしながら、今ようやく永遠の絆を得て、切っても切れない仲になったような感じがする。

 

うつ病の反対は幸福ではなく、生命力だ。そして私の人生は、ここに記すように、たとえ悲しいときであっても生命力に満ちている。ひょっとしたら、来年に何回か、ふたたび自分の精神を失ったまま目覚めるかもしれない。しかしそれは、座したまま黙然と待っているということではない。私は自分の魂に、七年前のある日、地獄が突然の訪問をして要求を突きつけるまでは想像すらできなかった自分自身の一部に、どう呼びかけねばならないかを発見してきた。それは貴重な発見であった。ほとんど毎日、私は瞬間的な絶望を味わい、そのたびにすべり落ちているのだろうかと危ぶむ。また、ときどき正気が失われる瞬間、稲妻の閃光のように車に轢かれてしまいたいという衝動が突きあげてきて、私は歯を食いしばりながら歩道にとどまり、信号が青に変わるのを待つ。あるいは、手首を切るのがいかに簡単か想像する。自分の口に突っ込んだ銃身の鉄の味を飢えたように欲する。眠りについて二度と目覚めない自分の姿を思い浮かべる。私はそうした感情が嫌いだ。しかし、それらが私を駆り立てて人生の深みに目を向けさせ、生きるための理由を発見させ、それにしがみつかせようとする。自分のどこを探しても、私が歩んできた人生の道筋をひたすら後悔する部分はない。毎日、私は生きることを選択する。ときには勇敢に、ときには死へ誘う瞬間に抵抗するために。これはまれなる喜びといえるのではないだろうか?

 

(『真昼の悪魔』 第十二章「希望」 原書房 堤理華訳)

 

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