つまりわたしは、いじめられて「わたしの人生」を傷つけられたのではなく(心理的には傷つきましたが)、またわたしは打ち負かされたのでもなく(心理的には打ち負かされましたが)、そもそもそんなことはありえず、わたしは「下村順一という出来事」として(その本質において)、決して誰からも何からも傷つけられることはなく、打ち負かされることなどあり得ないのでした。
(例)わたしにとっていじめられて辛かったのは、それによって自分の人生が台無しになってしまうこと、自分の価値が貶められてしまうことでした。わたしはいじめに遭いながら常にそれに恐怖していたのです。しかし、わたしは確かに心理的には傷つけられ、打ち負かされたかもしれませんが、それはそれでわたしの人生の出来事としてわたしの人生に取り込まれていたのであって、わたしの人生、つまりわたしという出来事そのものは、なんら傷つかず、打ち負かされるわけもなく、下村順一という出来事の営みの継続をなんら害されることもなく続けていたのでした。
わたしの価値は、ものとしての価値ではなく、わたしが出来事として存在するということにあると気づいた時、わたしは、誰もわたしの価値を貶めることなどできないということに気づいたのでした。
そうしてわたしは以下の単純な真実に気づいたのです、
わたしの「いじめ体験」、そうだ!それがわたしの人生だったのだ!
わたしの「いじめ後体験」、そうだ!それがわたしの人生だったのだ!
わたしの「うつ病闘病生活」、そうだ!それがわたしの人生だったのだ!
わたしは、出来事として、完全無欠であり、誰も何もわたしを傷つけることはできないし、打ち負かすことなどできないのだ、ということを悟ったのです。
わたし(自分)の正体(本体)は、下村順一という「出来事」のことであり、わたしに起こる一つ一つの出来事のそれ全体が、わたしの人生なのであり、つまりわたし自身なのだ、ということ、それ(出来事としてのわたし)以外にもっと優位的なわたしがあるわけではないのです(※)。
(※) 出来事としてのわたしこそ、わたしにとっての最高の価値です。なぜなら唯一無二でかけがえがなく、それ自体で自足しているからです。