下村順一 プロフィール

いじめトラウマを生き抜く方法

過去のいじめで苦しんでいる(いじめ後遺症の)あなたへ。いじめ後遺症うつ病者本人が、自身の、いじめ体験・いじめトラウマ体験・うつ病闘病体験について語ります。いかにトラウマを生き抜くかを考えます。いじめ自助グループ、トラウマ無料スカイプ相談など。

下村順一 プロフィール

はじめまして、こんにちは。

管理人の下村順一(しもむらじゅんいち)(仮名)といいます。

 

わたしはいじめトラウマうつ病者です。

 

つまり、中学3年生の時にいじめられて、その後、ひどいトラウマで人間関係に悩まされ、大学にははいったものの、大学2年生の時精神的に破たんし、精神科でうつ病と診断され、以後7年間にわたって闘病生活を送り、いまは社会へ出て働いていますが、いまだ医師からはうつ病と診断され抗うつ剤をのんでいる、うつ病者ということです。

 

これがわれながらなかなかカッコ悪いわたしの裏の経歴です。

 

そして今わたしは、幸せです。

 

幸せってどいうことですかね、それはたぶんいまわたしは自分のことを愛せている、ということだとおもいます。

 

それは、感情的には安心(心が安んずる)していて、気持ち的には感謝の念が生ずることです。

 

いじめの体験以来、幸せと思えるようになるのに13年かかりました。長かったなー。

 

だって、その間一瞬だって、辛くなかったことはなかったもん、いつだって辛かった、いつだって苦しかった、安心することなどなかったもん。

 

でも、いま思えばその13年はあっという間だった。いまでは、その13年間はわたしにとって大事な愛おしい存在であるし、誤解を招くことを恐れずにいえば、いじめ体験も、いじめ後のトラウマ体験も、また長いうつ病闘病生活も、いまのわたしはあってよかったとおもっています。

 

この「あってよかった」(Affirmation)を伝えたくて、本サイトを立ち上げました。

 

当時のわたしは、一生この自分のブザマな過去を背負いながら、秘密にしながら、生きてゆくしかないのだとおもいこんで、その孤独感、辛さ・苦しさに圧倒されていつも青ざめていました。

 

しかし、このサイトでわたしがやろうとしていることは、全く逆のことです。

 

わたしは、わたしに起きたこと、体験してきたこと、さとったこと、について洗いざらい語ります。

 

それがいじめ体験から13年かけて幸せになったわたしの仕事であり、それ自体がわたしの幸せそのものとなるからです。

 

わたしは、知っています、いまこれを読んでいるあなたが、どんなにブザマな体験をしたのか、どんなに自分に失望したのか、どんなに自分を軽蔑しているのか、どんなに頼りなく情けない気持ちでいるのか、わたしは知っています。

 

わたしは、そんなあなたにわたしのことを語りたいのです。

 

わたしはあなたと同じように弱くブザマな人間として、と同時に、それでもいま幸せを感じ、自分の人生に誇りをもっている人間として、あなたにわたしのもっているもの・しりえたことを伝えたいのです。

 

そしてわたしは断言できます、

 

あなたは、生きてさえいれば、時間がかかるかもしれないけれど、かならず幸せになれます。

 

あってよかったと、生きていてよかったとおもえる日がかならずきます。

 

あなたがしなければならないことは、

生きることです、とにかく生きて、生き続けて、生き抜くことです。

それだけです。

 

そしてそのための道しるべを提供するのが、

A Way To Affirmation(あってよかったとおもえるようになる道・方法)

いじめトラウマを生き抜く方法

なのです。

 

まえがきが長くなってしまいましたが、わたしのプロフィールを、年代順に書いておきます。

 

 

いじめ以前期

 

1972年 0歳

千葉県船橋市に生まれる。

 

1977年 5歳

東京新宿にある祖母の家に引っ越し。

 

1982年 10歳

小学校4年生の時、初恋を経験。大恋愛となり、以後わたしの人生に長きにわたり、多大なる影響を与える。

 

いじめ・いじめトラウマ・うつ病期

 

1987年 15歳

隣のクラスの同級生1人に10か月にわたって、卒業式の日まで、徹底的にいじめられる。いじめトラウマ人生の開始。

 

1988年 16歳

都立高校に入学。対人関係障害・うつ状態に苦しめられる。

 

1992年 20歳

東京の私立大学に入学。最初の一年、ひとりも友達ができず、精神的に追い詰められる。

 

1993年 21歳

役者の養成所に入門、が、その3ヶ月後、精神的・身体的に破たん、苦痛は頂点に達し、精神科を受診。うつ病と診断される。うつ病闘病生活の開始。いじめについて話したのはこのときの精神科医がはじめて。薬を飲んでも苦しみが緩和されない時代が以後7年間つづく。

 

1995年 23歳

奇跡的に一時うつ病の状態がよくなり、卒業論文を仕上げる。しかし、提出してしばらくしてからあっさり状態がわるくなり、再び、闘病生活。

 

1997年 25歳

2回留年してやっと大学を卒業。就職活動はせず引き続き闘病生活。翌年父が死去(享年68歳)。

 

1999年 27歳

いじめトラウマのトンネルから抜ける。うつ病はまだあったが、自分の人生を肯定できるようになる。いじめのことをひとに話せるようになる。1988年から1999年の13年間にわたるいじめトラウマ時代が終わる。

 

社会復帰期

 

2000年 28歳

マクドナルドハンバーガーで、7年ぶりにアルバイトを始める。1年間勤める。週2回、一回3時間の調理と清掃のバイト。最初の一ヶ月で5キロやせる。並行してスクールでプログラム開発の勉強をはじめる。

 

2001年 29歳

ソフトハウスでプログラマーとして雇ってもらう(アルバイト)。10か月勤務。

 

2002年 30

派遣社員として、プログラマー。半年間勤務。

 

2003年 31歳

派遣の仕事終了後、再び体調が悪くなり、しばらく仕事を休む。そのころ自助グループのミーティングに通い始める。

 

2004年 32歳

肉の万世で皿洗いとしてアルバイトを再び始める。

 

長期安定期

 

2005年 33歳

肉の万世で働きながら、契約社員として再びプログラマー。日本医療心理学院に入学(2年間、毎週土曜日授業)

 

2006年 34歳

肉の万世を惜しまれつつやめ、プログラマーに専念。社会人中心のアマチュア劇団を立ち上げる。

 
 

(2009年8月現在)

  

2007年 35歳

7月 阿佐ヶ谷の小劇場企画のオムニバス公演に参加。アマチュア劇団初公演となる。日本精神技術研究所にて心理臨床の理論と実践(ロールプレイ)を学ぶ(2年間、隔週水曜日、土曜日)。

この3年間が長期安定期となる。

 

30代後半:仕事にあぶれ悶々とした時代

 

2008年 36歳

4月3年間勤めた職場を契約満了につき退職。お金が少し溜まったので実家の近くでひとり暮らしをはじめる。プログラマーとして技術を身につけたと思い、新しい現場を探すが、この年から技術者余りになり、結局6ヶ月無就業状態となる。アマチュア劇団の第二回公演を予定して仕事の傍ら稽古を続けていたが、出演予定のメンバーが出れなくなり中止となる。10月から派遣社員として就業する(翌3月まで)。直前にリーマンショック。うつ状態自体は20代のころに比べると信じられないくらい改善されたが、長時間の労働には限界があり、派遣会社を通して、残業制限をかけてもらう。

(20代後半位からうつ状態のせいなのか、長期間にわたる大量の抗うつ薬の服用のせいかわからないが、筋肉に負担のかかることをすると過呼吸や数日間に渡る倦怠感・不調感が残るようになる。スポーツや肉体労働ができなくなる。医師からはわからないと言われる)

 

2009年 37歳

半年間の派遣社員就業を経て、再び次の仕事が決まるまでの10ヶ月間、無就業状態となる。悶々とした日々。10月アマチュア劇団第二回公演実現。12月派遣社員として再び就業。

 

2010年 38歳

昨年からの就業先の作業指揮者の厳しさとプロジェクト自体の重さの狭間で苦しくなり、4月に契約期間を1ヶ月残して、途中退場する。就業期間は5ヶ月であった。このことを機にプログラマーとしての能力の限界を感じる。プログラマーとしてのキャリアを断念する。ひとり暮らしを解消、実家に戻る。5月友人の紹介で居酒屋のバイトをはじめる。しかし自分が夜型でないのと、バイト以外なにもできない状態が続き、最後には身体的に限界が来て、10月に退職する。12月クロネコヤマトの宅急便の配達の仕事を始めるが(3時間の仕事)、2ヶ月で肉体に限界が来て、翌1月退職。その後、アルバイトや以前から関心のあった社会福祉などの仕事で、かつ体に負担の掛からない仕事を探すが決まらず、無就業状態が続き、悶々と過ごす。アマチュア劇団は活動を続けるが、1人のメンバーと折り合いがつかず、そのメンバーをやめさせたことで、他のメンバーが離散してしまい、メンバーは7名から一気に2名になる。その後残った女性メンバーと交際、人生初の異性との交際であった。

 

2011年 39歳

1月末にクロネコのバイトを退職してから、11月まで無就業状態が続く。引き続き悶々とした日々。ハローワークに通う。10月奇跡的にアマチュア劇団で交際していた女性と入籍・結婚。この時点では無職であった(母が、祖母の遺産で中古マンションを購入してもいいと言ってくれたので、入籍に踏み切った)。無就業時代の生活費は、プログラマー時代に蓄えた貯金を切り崩す形で捻出していた(いわゆるジリ貧)。11月より精神障害者のためのグループホームの世話人として週1回(五時間)勤める。月収は4万円ほど。アマチュア劇団は、2人からはじめて再び人が集まってくる。

 

2012年 40歳

5月に、大学時代の知人の紹介で非営利団体の正職員の求人に応募(最低条件は英語の翻訳ができることであった)。まずはアルバイトでの就業が決まる。週3日5時間。英語の記事の翻訳を試される。このタイミングでグループホームの仕事をやめる。8月条件付き(2013年1月まで試用期間)ではあるが、正職員として本待遇で迎え入れられる。人生初の正規社員。12月アマチュア劇団第三回公演実現。並行してカウンセリングの勉強を続ける(日本精神技術研究所の傾聴訓練(ロールプレイ)を受講、教育分析を受ける)。

 

2013年 41歳

2月より非営利団体正職員となる。6月には生まれて初めてのボーナスをもらう。結婚したとき無職だったので、やっとまともになれたと思った。この職場で定年までやっていこうと決意する。しかし基本3人しかいない狭い職場で、人間関係で少しずつ苦しくなっていく。

 

2014年 42歳

職場の同僚と折り合いが悪く、他の職員とも信頼関係を築けず、職場に居場所を見出せず苦しくなっていく。朝起きることができず欠勤や、遅刻が多くなる。職場恐怖で1週間休むことを、半年のうちに2回繰り返す。普段は職場から離れたところにいる社長とも相談したが、どうすることもできず、最後には、出勤して同僚の顔見ると具合が悪くなってきたので、これ以上続けるのは無理と決断し、社長に相談して、7月末日で断腸の思いで退職することになる。正社員として勤めたのは、1年11か月でした。職場での苦しい時期ではあったが、5月よりかねてより企画していたいじめサバイバーのための自助グループ のばらの会、を立ち上げる。一方でアマチュア劇団は退職した後も変わらず続けており、2015年公演の準備を進める。

 

2015年 43歳

4月にアマチュア劇団の第四回目の公演が実現する。妻は第三回、第四回公演ともに出演する。2014年7月に退職した後、以前から目指していた開業のカウンセラーになることを決意する。今度はなるべく多くの人に公言して自分を追いつめることにした。最後の挑戦だと思った。以後現在まで、カウンセリングルーム立ち上げのための準備と、カウンセリングの理論と実技の勉強に集中している。カウンセリングルーム自体は、実家の母の部屋を借りてやるので、部屋代等の開業資金がほとんどかからず、とにかくカウンセリングの能力を高めるための努力に現在は集中している。2015年10月、本格開業に先立って、無料カウンセリングを週2日提供するところから、心理臨床活動を始める予定。

  
 

(2015年10月現在)

  

現在に至る。

 
 

趣味・特技:アマチュア演劇、哲学宗教研究、クワガタムシ飼育

勉強していること:障害者福祉・心理臨床

 
 

わたしの自己紹介、最後まで読んでくれてありがとうございました。

このサイトが、少しでもあなたの痛みを和らげ、あなたのこころを慰め、あなたが少しでもやさしい気持ちになれることをわたしはこころから願っています。

 
 

(自己紹介おわり)